加藤民吉との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 03:08 UTC 版)
胤臣は熱田前新田の開拓民としてこの地に居た加藤吉左衛門・民吉親子と出会い、これが後に瀬戸窯に磁器をもたらすきっかけとなった。 当時の瀬戸では陶器だけが生産されていたが、肥前磁器(伊万里焼)など磁器の台頭によって苦境に喘ぎ、「窯を継ぐのは長子だけ」「一戸にろくろ1つのみ」など窯数の制限が行なわれて、吉左衛門も長男に窯を譲ったのち次男である民吉ら家族とともに熱田に移り住んでいた。彼らが瀬戸から来た陶工であることを知った胤臣は、かねて入手していた清国の『陶説』に書かれていた染付磁器(南京石焼)の作り方について指導し、知多郡加家から土を取り寄せるとともに、熱田新田の古い堤防を利用して窯を築かせるなどしてこれを焼かせ、続いて藩と瀬戸の陶工らに働きかけて、瀬戸で次男以下にこの「新製焼」の窯を開くことを認めさせている。 なお、当初の新製焼は肥前磁器などに品質で劣るものであったため、胤臣の没後にその遺志を継いだ養嗣子の津金庄七(胤貞)、瀬戸代官・水野権平や瀬戸村の庄屋で陶工でもあった四代 加藤唐左衛門らが尽力して、国内の磁器の本場である肥前に民吉を送り出している。
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