ロンドンに持ち込まれたオルレアン・コレクション
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「オルレアン・コレクション」の記事における「ロンドンに持ち込まれたオルレアン・コレクション」の解説
フィリップ2世の曾孫オルレアン公ルイ・フィリップ2世は膨大な遺産を相続していたが、賭博で身を持ち崩し、絵画のオルレアン・コレクションと同様に評価が高かったインタリオのコレクションを1787年にロシア女帝エカチェリーナ2世へと売却した。さらに1788年には、クリスティーズの創設者ジェームズ・クリスティーが組織したシンジケートからオルレアン・コレクションを売却するよう、本格的な交渉を何度も受けている。クリスティーは100,000ギニーでオルレアン・コレクションを入手しようとしたが、イギリス王太子ジョージとジョージの弟ヨーク公フレデリック、クラレンス公ウィリアムが合計17,000ギニーをルイ・フィリップ2世に融資したため、クリスティーの交渉は失敗に終わった。同時代の銀行家でアンティーク収集家でもあったドーソン・ターナー (en:Dawson Turner) の意見では、イギリス王室がオルレアン・コレクションを分割して、その大部分を入手しようと考えたのではないかとしている。 1792年にルイ・フィリップ2世は147点のドイツ、オランダ、フランドル絵画を、イギリス人画商トーマス・ムーア・スレイドに売却している。スレイドは二人のイギリス人銀行家とスコットランド貴族の第7代キナード卿ジョージ・キナードからなるシンジケートの一員で、350,000リーブルで購入したこれらの絵画を売却するためにロンドンへ持ち込んだ。このときフランス人芸術家やフランスの一般大衆、さらにはルイ・フィリップ2世の債権者たちから、フランス国外への持ち出しについて大きな反発を受けていたため、スレイドは絵画を陸路カレーまで運ぶと虚偽の発表をしており、実際は絵画を夜陰に紛れて船に積み、セーヌ川からル・アーヴルへと輸送している。1793年4月に、ロンドンのウエスト・エンド、ペルメル街125番で、これらの絵画の展示販売会が入場料1シリングで開催された。1日あたり2,000人以上の入場者があり、絵画はさまざまな客に売却されている。 1792年にルイ・フィリップ2世は残りのオルレアン・コレクション(フランス、イタリア絵画)すべてを衝動的にブリュッセルの銀行家に売却することにした。ルイ・フィリップ2世は1793年4月に捕縛され、11月6日にギロチンで処刑されるが、その間にも絵画売却の交渉は続けられていた。新たな契約が結び直され、コレクションは750,000リーブルでブリュッセルの銀行家エドゥアール・ヴァルキエルが購入した。ヴァルキエルは購入したコレクションをその日のうちに従兄弟のラボルド侯ジャン=ジョゼフ (en:Jean-Joseph de Laborde) に転売し、莫大な利益をあげている。ジャン=ジョゼフは優れた美術品鑑識眼を備えた人物で、オルレアン・コレクションをフランスの国有コレクションに加えることを望んでいた。しかしマクシミリアン・ロベスピエールらによる恐怖政治で、ルイ・フィリップ2世と同様にジャン=ジョゼフの父も処刑され、身の危険を感じたジャン=ジョゼフは1793年にコレクションとともにロンドンへと亡命した。 オルレアン・コレクションはその後5年間ジャン=ジョゼフとともにロンドンにあった。その間イギリス王ジョージ3世と首相ウィリアム・ピットによる、オルレアン・コレクションをイギリスの財産にしようとする水面下での企てもあったが、いずれも成功していない。最終的にオルレアン・コレクションを購入したのは、石炭で莫大な富を築いた第3代ブリッジウォータ公爵フランシス・エジャートン、その甥でエジャートンの遺産相続人でもあった、後に初代サザーランド公爵位を受爵するガウアー伯ジョージ・グランヴィル・レヴェソン=ガウアー、第5代カーライル伯フレデリック・ハワード によるシンジケートで、1798年のことだった。コレクション購入に主導的な役割を果たしたのはおそらくレヴェソン=ガウアーで、購入代金43,500ポンドのうち8分の1、ハワードが4分の1、エジャートンが残り全額を出資している。 エジャートンらが購入したコレクションは1798年に7ヶ月間一般公開されている。コレクションのごく一部の絵画の売却も目的としており、ペルメル街ストランドにあった美術史家で画商のマイケル・ブライアン (en:Michael Bryan (art historian)) のギャラリーで開催された。入場料は2/6ペンスで、当時のこのような催し物の入場料としてはごく一般的な金額だった。最初に公開されたコレクションを目にしたイギリス人随筆家、文芸批評家のウィリアム・ハズリット は「これらの絵画を目にしたときには思わずふらついてしまった。経験したことのない感覚に襲われ、まるで見知らぬ楽園と地平が目の前に広がっているようだった」としている。その後1798年、1800年、1802年とオルレアン・コレクションの絵画売買のオークションが開催された。画商の仲介のないオークションだったため比較的低価格で購入可能だったが、出品された305点の絵画のうち94点は売れ残った。ただしこれらの絵画については、出品したシンジケートが毎回故意に売買を成立させなかったと考えられており、今日でも三家の世襲財産として伝えられているものが多い。すべてのオークションでの絵画売却額と入場料の合計額は42,500ポンドにのぼり、展示会とオークションにかかる諸経費を考慮しても、シンジケートが自分たちの手元に残した絵画はジャン=ジョゼフから非常に安い価格で入手したことになった。カーライル伯爵家の居城であるカースル・ハワードにはもともと15点のオルレアン・コレクションの絵画が存在していたが、売却、寄付、火災などによってコレクションの多くを失っている。一方でブリッジウォータ/サザーランド家のコレクションはほとんど往時のままに残されている。 当時のロンドン絵画市場は、フランス革命の影響でフランスから持ち込まれたコレクションと、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍によるネーデルラント、イタリア侵攻で略奪された絵画であふれていた。昔のコレクターに関してよく言及されることではあるが、現代人から見れば当時のコレクターの絵画売買には疑問が残るケースが多い。例えば、あるコレクターはミケランジェロの絵画2点をわずか90ギニーと52ギニーで売却している。ティツィアーノの作品が投売りされた一方で、ボローニャ派のバロック絵画はラファエロの後期の作品と同様に珍重されている。ヴァトーの作品が11ギニーで取引される一方で、ルドヴィコ・カラッチの作品にはオークションで4,000ポンドの値がついた。このときのオークションには33点のカラッチの作品が売れているが、ベリーニ、カラバッジョの作品には買い手がつかなかった。現在では当時のロンドン絵画市場で取引された絵画の多くは追跡が不可能で、多くの絵画が無名の画家による作品か単なる模倣者による作品だったと考えられている。概して優れた作品には適正な価格がつけられたが、なかには年代とともに価値が暴落している作品もある。1798年に60ギニーの価値があったカラッチの絵画が、1913年のオークションでは2ギニーまでしか値がつかなかった。 トーマス・ムーア・スレイドとラボルド侯ジャン=ジョゼフがロンドンへと持ち込んだオルレアン・コレクションの絵画は様々な階級の富裕層が購入した。購入者の大多数はイギリス人だったが、フランスが引き起こした戦争をさけてロンドンへ身を寄せていた外国人もいた。スコットランド系オランダ人銀行家トマス・ホープ (en:Thomas Hope) はナポレオン戦争のためにロンドンへ避難していたが、後にホープダイヤモンドの所有者として有名になる弟のヘンリー・フィリップ・ホープとともに、現在フリック・コレクションが所蔵するヴェロネーゼの絵画2点とミケランジェロ、ベラスケス、ティツィアーノの絵画を購入している。その他にオルレアン・コレクションの絵画を購入した著名人として、後にそのコレクションがロンドンのナショナル・ギャラリー創設の基礎となったロシア系ドイツ人保険ブローカーのジョン・ジュリアス・アンガースタイン (en:John Julius Angerstein)、第4代ダーンリー伯ジョン・ブライ 、初代ヘアウッド伯エドワード・ラッセルズ (en:Edward Lascelles, 1st Earl of Harewood)、後に一族のコレクションがフィッツウィリアム美術館として創設された第4代フィッツウィリアム伯ウィリアム (en:William FitzWilliam, 4th Earl FitzWilliam) などがいる。 イギリス人美術史家ジェラルド・ライトリンガーの分析では、イギリスに持ち込まれたオルレアン・コレクションのうちイタリア、フランス絵画の主要購入者の階級、職業は次のようになっている。 貴族 - 12名(ブリッジウォータ公、ガウアー伯、カーライル伯を含む) 商人 - 10名(4名の国会議員、3名のナイト爵を含む。投機目的で購入されたものがほとんどで、数年のうちに多くが転売されている) 画商 - 6名(エジャートンらに展示場所としてギャラリーを提供したマイケル・ブライアンを含む) 銀行家 - トマス・ホープ、アンガースタイン 画家 - ウォルトン、ウドニー、コスウェイ (en:Richard Cosway)、スキップ 紳士階級 - 6名(ウィリアム・トマス・ベックフォード、サミュエル・ロジャース (en:Samuel Rogers) を含む) ライトリンガーはこの購入者の分析の説明として「他のヨーロッパ諸国とはかなり異なる」さらに税金を徴収する側の支配層が主要な美術品コレクターだった「革命前のフランスとは全く異なっている」と述べている。
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