ロンドンに持ち込まれたオルレアン・コレクションとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ロンドンに持ち込まれたオルレアン・コレクションの意味・解説 

ロンドンに持ち込まれたオルレアン・コレクション

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 01:24 UTC 版)

オルレアン・コレクション」の記事における「ロンドンに持ち込まれたオルレアン・コレクション」の解説

フィリップ2世曾孫オルレアン公ルイ・フィリップ2世膨大な遺産相続していたが、賭博身を持ち崩し絵画オルレアン・コレクション同様に評価高かったインタリオコレクション1787年ロシア女帝エカチェリーナ2世へと売却した。さらに1788年には、クリスティーズ創設者ジェームズ・クリスティー組織したシンジケートからオルレアン・コレクション売却するよう、本格的な交渉何度も受けている。クリスティー100,000ギニーオルレアン・コレクション入手しようとしたが、イギリス王太子ジョージジョージの弟ヨーク公フレデリッククラレンス公ウィリアム合計17,000ギニールイ・フィリップ2世融資したため、クリスティー交渉失敗終わった同時代銀行家アンティーク収集家でもあったドーソン・ターナー (en:Dawson Turner) の意見では、イギリス王室オルレアン・コレクション分割して、その大部分入手しよう考えたではないかとしている。 1792年ルイ・フィリップ2世147点のドイツオランダフランドル絵画を、イギリス人画商トーマス・ムーア・スレイドに売却している。スレイド二人イギリス人銀行家スコットランド貴族第7代キナード卿ジョージ・キナードからなるシンジケート一員で、350,000リーブル購入したこれらの絵画売却するためにロンドンへ持ち込んだ。このときフランス人芸術家フランス一般大衆さらにはルイ・フィリップ2世債権者たちからフランス国外への持ち出しについて大きな反発受けていたため、スレイド絵画陸路カレーまで運ぶと虚偽発表をしており、実際絵画夜陰紛れて船に積みセーヌ川からル・アーヴルへと輸送している。1793年4月に、ロンドンウエスト・エンドペルメル街125番で、これらの絵画展示販売会が入場料1シリング開催された。1日あたり2,000人以上の入場者があり、絵画さまざまな客に売却されている。 1792年ルイ・フィリップ2世残りオルレアン・コレクションフランスイタリア絵画)すべてを衝動的にブリュッセル銀行家売却することにした。ルイ・フィリップ2世1793年4月捕縛され11月6日ギロチン処刑されるが、その間にも絵画売却交渉続けられていた。新たな契約が結び直されコレクション750,000リーブルブリュッセル銀行家エドゥアール・ヴァルキエルが購入した。ヴァルキエルは購入したコレクションその日のうちに従兄弟のラボルド侯ジャンジョゼフ (en:Jean-Joseph de Laborde) に転売し、莫大な利益をあげている。ジャンジョゼフ優れた美術品鑑識眼備えた人物で、オルレアン・コレクションフランス国有コレクション加えることを望んでいた。しかしマクシミリアン・ロベスピエールらによる恐怖政治で、ルイ・フィリップ2世同様にジャンジョゼフの父も処刑され身の危険感じたジャンジョゼフ1793年コレクションとともにロンドンへ亡命したオルレアン・コレクションその後5年ジャンジョゼフとともにロンドンにあったその間イギリス王ジョージ3世首相ウィリアム・ピットによる、オルレアン・コレクションイギリス財産にしようとする水面下での企てもあったが、いずれも成功していない。最終的にオルレアン・コレクション購入したのは、石炭莫大な富を築いた第3ブリッジウォータ公爵フランシス・エジャートン、その甥でエジャートンの遺産相続人でもあった、後に初代サザーランド公爵位を受爵するガウアー伯ジョージ・グランヴィル・レヴェソン=ガウアー、第5代カーライル伯フレデリック・ハワード によるシンジケートで、1798年のことだった。コレクション購入主導的な役割果たしたのはおそらくレヴェソン=ガウアーで、購入代金43,500ポンドのうち8分の1ハワード4分の1、エジャートンが残り全額出資している。 エジャートンらが購入したコレクション1798年に7ヶ月一般公開されている。コレクションごく一部絵画売却目的としており、ペルメル街ストランドにあった美術史家画商のマイケル・ブライアン (en:Michael Bryan (art historian)) のギャラリー開催された。入場料2/6ペンスで、当時このような催し物入場料としてはごく一般的な金額だった。最初に公開されコレクションを目にしたイギリス人随筆家文芸批評家ウィリアム・ハズリット は「これらの絵画を目にしたときには思わずふらついてしまった。経験したことのない感覚襲われ、まるで見知らぬ楽園地平目の前に広がっているようだった」としている。その後1798年1800年1802年オルレアン・コレクション絵画売買オークション開催された。画商仲介のないオークションだったため比較低価格購入可能だったが、出品され305点の絵画のうち94点は売れ残った。ただしこれらの絵画については、出品したシンジケート毎回故意売買成立させなかったと考えられており、今日でも三家世襲財産として伝えられているものが多い。すべてのオークションでの絵画売却額と入場料合計額は42,500ポンドにのぼり、展示会オークションにかかる諸経費考慮しても、シンジケート自分たちの手元に残した絵画ジャンジョゼフから非常に安い価格入手したことになったカーライル伯爵家の居城であるカースル・ハワードにはもともと15点オルレアン・コレクション絵画存在していたが、売却寄付火災などによってコレクション多く失っている。一方でブリッジウォータ/サザーランド家のコレクションはほとんど往時のままに残されている。 当時ロンドン絵画市場は、フランス革命の影響フランスから持ち込まれコレクションと、ナポレオン・ボナパルト率いフランス軍によるネーデルラントイタリア侵攻略奪され絵画あふれていた。昔のコレクターに関してよく言及されることではあるが、現代人から見れば当時コレクター絵画売買には疑問が残るケースが多い。例えば、あるコレクターミケランジェロ絵画2点をわずか90ギニー52ギニー売却している。ティツィアーノ作品投売りされた一方でボローニャ派のバロック絵画ラファエロ後期の作品同様に珍重されている。ヴァトー作品11ギニー取引される一方でルドヴィコ・カラッチ作品にはオークションで4,000ポンドの値がついた。このときのオークションには33点のカラッチ作品売れているが、ベリーニカラバッジョ作品には買い手がつかなかった。現在では当時ロンドン絵画市場取引され絵画多く追跡不可能で、多く絵画無名画家による作品単なる模倣者による作品だったと考えられている。概して優れた作品には適正な価格つけられたが、なかには年代とともに価値暴落している作品もある。1798年60ギニー価値があったカラッチ絵画が、1913年オークションでは2ギニーまでしか値がつかなかった。 トーマス・ムーア・スレイドとラボルド侯ジャンジョゼフロンドンへ持ち込んだオルレアン・コレクション絵画様々な階級富裕層購入した購入者大多数イギリス人だったが、フランス引き起こした戦争をさけてロンドンへ身を寄せていた外国人もいた。スコットランド系オランダ人銀行家トマス・ホープ (en:Thomas Hope) はナポレオン戦争のためにロンドンへ避難していたが、後にホープダイヤモンド所有者として有名になる弟のヘンリー・フィリップ・ホープとともに、現在フリック・コレクション所蔵するヴェロネーゼ絵画2点ミケランジェロベラスケスティツィアーノ絵画購入している。その他にオルレアン・コレクション絵画購入した著名人として、後にそのコレクションロンドンナショナル・ギャラリー創設基礎となったロシア系ドイツ人保険ブローカーのジョン・ジュリアス・アンガースタイン (en:John Julius Angerstein)、第4代ダーンリー伯ジョン・ブライ 、初代ヘアウッド伯エドワード・ラッセルズ (en:Edward Lascelles, 1st Earl of Harewood)、後に一族コレクションフィッツウィリアム美術館として創設された第4代フィッツウィリアム伯ウィリアム (en:William FitzWilliam, 4th Earl FitzWilliam) などがいる。 イギリス人美術史家ジェラルド・ライトリンガーの分析では、イギリス持ち込まれオルレアン・コレクションのうちイタリアフランス絵画の主要購入者階級職業次のようになっている貴族 - 12名(ブリッジウォータ公ガウアー伯、カーライル伯を含む) 商人 - 10名(4名の国会議員、3名のナイト爵を含む。投機目的購入されたものがほとんどで、数年のうちに多く転売されている) 画商 - 6名(エジャートンらに展示場所としてギャラリー提供したマイケル・ブライアンを含む) 銀行家 - トマス・ホープ、アンガースタイン 画家 - ウォルトン、ウドニー、コスウェイ (en:Richard Cosway)、スキップ 紳士階級 - 6名(ウィリアム・トマス・ベックフォード、サミュエル・ロジャース (en:Samuel Rogers) を含む) ライトリンガーはこの購入者分析説明として「他のヨーロッパ諸国とはかなり異なる」さらに税金徴収する側の支配層主要な美術品コレクターだった「革命前フランスとは全く異なっている」と述べている。

※この「ロンドンに持ち込まれたオルレアン・コレクション」の解説は、「オルレアン・コレクション」の解説の一部です。
「ロンドンに持ち込まれたオルレアン・コレクション」を含む「オルレアン・コレクション」の記事については、「オルレアン・コレクション」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ロンドンに持ち込まれたオルレアン・コレクション」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ロンドンに持ち込まれたオルレアン・コレクション」の関連用語

ロンドンに持ち込まれたオルレアン・コレクションのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ロンドンに持ち込まれたオルレアン・コレクションのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオルレアン・コレクション (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS