ロンドンとニューヨークへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:10 UTC 版)
「パウル・コハンスキ」の記事における「ロンドンとニューヨークへ」の解説
1920年に短期間ロンドンに定住し、ルービンシュタインと共同してウィグモア・ホールでリサイタルを開く。ロンドンではシマノフスキとも再会し、妻ゾシアも加わりブライトンに集った。シマノフスキとは1921年1月にウィグモア・ホールで共同リサイタルを開き、数週間後に4人でニューヨークに向けて出発した。ポール・ドレーパーと(コハンスキのアメリカでのマネージャーである)ジョージ・エンジェルス(George Engels)が待ち受けており、コハンスキとルービンシュタインは直ちに現地の音楽界に受け入れられ、間もなくエルネスト・ブロッホの《ヴァイオリンソナタ第1番(英語版)》の世界初演を行なった。コハンスキーはカーネギー・ホールでのデビューでブラームスの《ヴァイオリン協奏曲》を演奏して大旋風を捲き起こし、すぐさま引く手あまたの演奏家となった。4人はイギリスに引き返したが、秋にはニューヨークに戻った。コハンスキーは1922年4月にブエノスアイレスでも演奏した。この頃から活動拠点をニューヨークに移し、1924年から没年までジュリアード音楽学校で教鞭を執った。 1933年、すでに癌に蝕まれていたにもかかわらず、シマノフスキの《ヴァイオリン協奏曲 第2番》の完成を助けて、その初演を行なった。 1934年に逝去。47歳であった。 ジュリアード音楽学校で無宗教による学校葬が行われ、1,500人が列席した。その中に、フリッツ・クライスラーやエフレム・ジンバリスト、ヤッシャ・ハイフェッツといったヴァイオリニストばかりでなく、フランク・ダムロッシュやウォルター・ダムロッシュ、セルゲイ・クーセヴィツキーやアルトゥーロ・トスカニーニ、ウラディミール・ホロヴィッツといった錚々たる顔触れの音楽家が集まった。 シマノフスキの《ヴァイオリン協奏曲 第2番》がコハンスキーの死後になって出版された時、故人を偲ぶ感動的な献辞が出版譜に掲げられた。 ルービンシュタインはコハンスキーを最愛の親友と呼んで慕っていた。ルービンシュタインによるとコハンスキーは真っ正直な人間を好み、トランプ遊びが好きで、時々大胆なことを口走ったという。
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