ロンドンとシェイクスピア
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「エドモンド・マローン」の記事における「ロンドンとシェイクスピア」の解説
1776年にロンドンでゴールドスミスの言行録の調査を行っている間、マローンはジョージ・スティーヴンズと出会っていた。それまでサミュエル・ジョンソンからジェイコブ・トンソン版シェイクスピア作品集の編集者の職責を相続していたスティーヴンズは、当時第二版の準備に忙しかった。スティーヴンズはマローンの仕事を完成させる手助けをするために彼を招聘した。マローンが着手するのを助けるために、スティーヴンズはジェラルド・ラングベインのAn Account of the English Dramatic Poets (1691年)をマローンに貸した。その貸した本にスティーブンスは自身が書き込んだメモに加え、ウィリアム・オールディズのメモを追加した。マローンが1777年の前半にアイルランドに戻った際には、マローン自らの手で全ての注釈を複写したもの用意した。マローンは3月30日にその複写を終わらせ、5月1日にアイルランドを離れたのち再び同国で暮らすことはなかった。 マローンはロンドンから42キロメートル離れたサニングヒルの家に移り住み、仕事を始めた。移り住んでから数か月間、彼は間断なく一連の注釈と訂正をスティーヴンズに送り続け、1778年1月には全10巻のThe Plays of William Shakspeare(『シェイクスピア戯曲集』)が出版された。マローンの主な貢献は第一巻の「シェイクスピア作品が書かれた順序を突き止める試み」に見られる。この「試み」は好意的に受け入れられ、スティーヴンズに提供した記録や訂正以上に注目を集めた。マローンにとって初のシェイクスピア研究への貢献が出版されたことで、彼はサニングヒルを離れてロンドンへ居を定めた。最初は一時的にメリルボーン・ストリートに住み、そのあとメリルボーンで現在のフォーリー・ストリートにあった東クイーン・アン通りの55番地に家を借りた。 1778年の後半、マローンは数か月間アイルランドを訪れた。1779年2月にはアイルランドから戻ってきてすぐ、ジョシュア・レイノルズに自らの肖像を描いてもらいはじめた。当時レイノルズは肖像画家として認められており、「顔と肩」を描いてもらうのに35ギニー (£36.75)の費用がかかった。マローンの叔父アンソニー・マローンは1774年にレイノルズに肖像を描いてもらっており、マローン自身も良い交友関係を築いた。2月23日から7月10日までの間に10回も肖像を描かせ、レイノルズの予定表によると、第4代モールバラ公爵ジョージ・スペンサーやイギリスの歴史家で下院議員であったエドワード・ギボン、Anecdotes of the Late Samuel Johnson(『今は亡きサミュエル・ジョンソンの逸話集』)の著者でジョンソンの親しい友人であったヘスター・スレイル、そして4月28日と5月17日には、当時イングランドとアイルランドの国王だったジョージ3世と同じ日に描いてもらっていた。マローンは1792年にレイノルズが亡くなるまで親しい友人であり続け、レイノルズが亡くなる際には、エドマンド・バーク、フィリップ・メトカルフェと共にマローンを遺言執行者に任命した。 マローンの学問上の次なる計画は、ジョンソン&スティーヴンズ版「シェイクスピア」の補遺であった。同版へのマローンの貢献に満足し、スティーヴンズは1664年にフィリップ・チェトウィンドによって出版されていたサード・フォリオの第二版に含まれていたシェイクスピア外典を出版するために彼を招いた。これがマローンのプロジェクトであり、スティーヴンズに嫌々ながらも容認され、マローンは物語の詩やソネット集を含めるために作品を拡充した。しかし両者は互いに密接に仕事を行い、アイザック・リードやウィリアム・ブラックストン、トーマス・パーシーに草稿の懇願を行った。この時点まで、彼らの協力関係は偽りなく生産的なものだった。スティーヴンズはマローンに初めてシェイクスピアを編纂する機会を与え、反対にスティーヴンズは若い学者の仕事から大いに利益を得たものの、補遺の仕事を行っているうちに仲違いをしていった。スティーヴンズはスザンナ・スペンサーの話を持ち出し、マローンのシェイクスピアに関する仕事は彼のスザンナとの不幸な関係から気を紛らわせる手段にすぎないと示唆した。マローンの望みは学者として生活することであったためこのことに腹を立て、スティーヴンズに対して、反対にシェイクスピアの完全な新版を作り出すつもりであり、「ジョンソン&スティーヴンズ版よりも科学的で整然とした版はいずれ実現するだろう」と反論した。彼らはこれらの相違を解決したものの、スティーヴンズはその時すでに自らのシェイクスピア編纂における第一人者の地位が脅かされていると感じ始めていた。マローンは精力的であり尊大で、連続的な流れの校正は年上の編集者をいらいらさせた。緊張感のある関係にも関わらず、1780年4月の下旬頃、A Supplement to the Edition of Shakespeare, Published in 1778 by Samuel Johnson and George Steevens(1778年発行のサミュエル・ジョンソン、ジョージ・スティーヴンズ版シェイクスピアの補足)は全2巻で出版された。この作品は一般の好意的な評価を受け、特に『ジェントルマンズ・マガジン』と『マンスリー・レビュー』から高い評価を受けた。しかしスティーヴンズが経営権を持っている『セント・ジェームズ・クロニクル』からの批判もあった。マーティンはその批判を「本文や事実関係の些細な点に難癖を付けた匿名の軽薄な記述」から成り、これはスティーヴンズ本人もしくはスティーヴンズの命令によって書かれたものであろうと書いている。 マローンは亡くなった際、シェイクスピアの八つ折り判の新たな版の仕事をしており、それらの資料は有名なボズウェルの息子に残された。
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