ロンドンとシェイクスピアとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ロンドンとシェイクスピアの意味・解説 

ロンドンとシェイクスピア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 04:12 UTC 版)

エドモンド・マローン」の記事における「ロンドンとシェイクスピア」の解説

1776年ロンドンゴールドスミス言行録調査行っている間、マローンはジョージ・スティーヴンズと出会っていた。それまでサミュエル・ジョンソンからジェイコブ・トンソン版シェイクスピア作品集編集者職責相続していたスティーヴンズは、当時第二版準備忙しかったスティーヴンズマローン仕事完成させる手助けをするために彼を招聘した。マローン着手するのを助けるために、スティーヴンズはジェラルド・ラングベインのAn Account of the English Dramatic Poets (1691年)をマローン貸した。その貸した本にスティーブンス自身書き込んだメモ加え、ウィリアム・オールディズのメモ追加したマローン1777年前半アイルランド戻った際には、マローン自らの手全ての注釈複写したもの用意したマローン3月30日にその複写を終わらせ、5月1日アイルランド離れたのち再び同国で暮らすことはなかった。 マローンロンドンから42キロメートル離れたサニングヒルの家に移り住み仕事始めた移り住んでから数か月間、彼は間断なく一連の注釈訂正スティーヴンズ送り続け1778年1月には全10巻のThe Plays of William Shakspeare(『シェイクスピア戯曲集』)が出版された。マローン主な貢献第一巻の「シェイクスピア作品書かれ順序突き止める試み」に見られる。この「試み」は好意的に受け入れられスティーヴンズ提供した記録訂正以上に注目集めたマローンにとって初のシェイクスピア研究への貢献出版されたことで、彼はサニングヒルを離れてロンドンへ居を定めた最初一時的にメリルボーン・ストリートに住みそのあとメリルボーン現在のフォーリー・ストリートにあったクイーン・アン通り55番地に家を借りた1778年後半マローンは数か月アイルランド訪れた1779年2月にはアイルランドから戻ってきてすぐ、ジョシュア・レイノルズに自らの肖像描いてもらいはじめた当時レイノルズ肖像画家として認められており、「顔と肩」を描いてもらうのに35ギニー (£36.75)の費用がかかったマローン叔父アンソニー・マローンは1774年レイノルズ肖像描いてもらっており、マローン自身良い交友関係築いた2月23日から7月10日までの間に10回も肖像を描かせ、レイノルズ予定表によると、第4代モールバラ公爵ジョージ・スペンサーイギリスの歴史家で下院議員であったエドワード・ギボン、Anecdotes of the Late Samuel Johnson(『今は亡きサミュエル・ジョンソン逸話集』)の著者ジョンソン親し友人であったヘスター・スレイル、そして4月28日5月17日には、当時イングランドアイルランド国王だったジョージ3世と同じ日に描いてもらっていた。マローン1792年レイノルズ亡くなるまで親し友人であり続けレイノルズ亡くなる際には、エドマンド・バーク、フィリップ・メトカルフェと共にマローン遺言執行者任命したマローン学問上次なる計画は、ジョンソン&スティーヴンズ版「シェイクスピア」の補遺であった。同版へのマローン貢献満足しスティーヴンズ1664年にフィリップ・チェトウィンドによって出版されていたサード・フォリオ第二版含まれていたシェイクスピア外典出版するために彼を招いた。これがマローンプロジェクトであり、スティーヴンズ嫌々ながら容認されマローン物語の詩やソネット集含めるために作品拡充した。しかし両者互いに密接に仕事行い、アイザック・リードやウィリアム・ブラックストン、トーマス・パーシーに草稿懇願行った。この時点まで、彼らの協力関係偽りなく生産的なのだったスティーヴンズマローン初めシェイクスピア編纂する機会与え反対にスティーヴンズは若い学者仕事から大い利益得たものの、補遺仕事行っているうちに仲違いをしていったスティーヴンズはスザンナ・スペンサーの話を持ち出しマローンシェイクスピアに関する仕事彼のスザンナとの不幸な関係から気を紛らわせ手段にすぎない示唆したマローン望み学者として生活することであったためこのことに腹を立てスティーヴンズに対して反対にシェイクスピアの完全な新版作り出すつもりであり、「ジョンソン&スティーヴンズ版よりも科学的整然としたはいずれ実現するだろう」と反論した。彼らはこれらの相違解決したものの、スティーヴンズその時すでに自らのシェイクスピア編纂における第一人者地位脅かされていると感じ始めていた。マローン精力的であり尊大で、連続的な流れ校正年上編集者をいらいらさせた。緊張感のある関係にも関わらず1780年4月下旬頃、A Supplement to the Edition of Shakespeare, Published in 1778 by Samuel Johnson and George Steevens(1778年発行サミュエル・ジョンソン、ジョージ・スティーヴンズ版シェイクスピア補足)は全2巻出版された。この作品一般好意的な評価を受け、特に『ジェントルマンズ・マガジン』と『マンスリー・レビュー』から高い評価受けた。しかしスティーヴンズ経営権持っている『セント・ジェームズ・クロニクル』からの批判もあった。マーティンはその批判を「本文事実関係些細な点に難癖を付け匿名軽薄な記述」から成り、これはスティーヴンズ本人もしくはスティーヴンズ命令によって書かれたものであろうと書いている。 マローン亡くなった際、シェイクスピア八つ折り判の新たな版の仕事をしており、それらの資料有名なボズウェル息子残された。

※この「ロンドンとシェイクスピア」の解説は、「エドモンド・マローン」の解説の一部です。
「ロンドンとシェイクスピア」を含む「エドモンド・マローン」の記事については、「エドモンド・マローン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ロンドンとシェイクスピア」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ロンドンとシェイクスピア」の関連用語

ロンドンとシェイクスピアのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ロンドンとシェイクスピアのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのエドモンド・マローン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS