ムハンマドの死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 09:16 UTC 版)
「アンサール (イスラーム)」の記事における「ムハンマドの死後」の解説
預言者ムハンマドが亡くなり、終身カリフが共同体を指導する時代に入ると、アンサールが多くの征服事業において軍事的に重要な要素となった。カリフ・アブー・バクルのときには、ブザハの戦いにおいて、ハーリド・イブン・アル=ワリードの味方をすることとなった。のちに彼らは、ヤマーマの戦いでも傑出した役割を演じた。この戦いにおいて、アル=バラ・イブン・マリク・アル=アンサーリーが指揮するアンサールたちは、戦いのターニングポイントとなった危険な瞬間に、突撃を仕掛けた。この戦いではサハーバの一人でアンサールのうち最も優れた戦士であったアブー・ドゥジャーナが斃れたことでも知られる。 カリフ・ウスマーン・イブン・アッファーンの時代のヒジュラ暦24年(西暦645年)には、傑出したアンサールたちはみな、大きな地位を占めるようになった。たとえば、アル=バラーゥ・イブン・アジブというアンサールは、ペルシアのレイの支配者に任命された。彼は引退後はクーファへ行き、ヒジュラ暦71年(西暦690年)に当地で没した。 ウマイヤ朝の時代になると、アンサールは、いくぶん反体制的な政治派閥となった。アンサールは、当時執権中のウマイヤ家よりもマフズーム部族の軍団と親しく交わり、このような結びつきの中から、ヒジャーズにおけるローカルエリートによる政治権力構造が形づくられていったとされている。
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