ナルセスのイタリア征服とは? わかりやすく解説

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ナルセスのイタリア征服(551年 - 554年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:25 UTC 版)

ゴート戦争」の記事における「ナルセスのイタリア征服(551年 - 554年)」の解説

550年から551年にかけて対ペルシャ戦線落ち着いたことにより、ユスティニアヌス帝は再びイタリア方面力を注ぐことが可能になった。ベリサリウス後任にはゲルマヌス (en) が任命された。ゲルマヌス皇帝従兄弟にあたり、またテオドリック孫娘ウィティギスの妻でもあったマタスンタ再婚しており、東ゴート族対す政治的効果期待されていたが、彼は出征準備中急死してしまう。代わって、ナルセス最高司令官任命され彼に豊富な資金大幅な権限与えられた。 ナルセスランゴバルド族、ヘリール族など蛮族中心に3の兵を集め東ローマ軍イリュリア経て551年北イタリア侵攻した同年秋にアドリア海のセナ・ガリカ(Sena Gallica:現在のセニガッリア)で海戦が行われ、東ゴート艦隊壊滅している(セナ・ガリカの海戦 (en) )。 長期間戦いで疲弊していた東ゴート軍は対抗しうる兵力集めることが難しくなっており、またポー渓谷の彼らの防御拠点迂回されてしまい、ナルセス軍隊中央イタリアヴェネト直接進出してきた。東ローマ軍の侵攻食い止めるべく、トーティラは兵2万をもってブスタ・ガッローウムと呼ばれる狭い渓谷現在のペルージャ付近)に布陣した。 552年7月1日、この地でブスタ・ガッローウムの戦い(またはタギナエの戦い (en) )と呼ばれる東ローマ軍東ゴート軍との決戦が行われた。この戦いで東ゴート軍は大敗喫しトーティラ戦死したナルセス戦闘では勇敢だが、民間人への蛮行が目に余るランゴバルド族報償与えると故郷へ帰したナルセス南下してローマ包囲し、この戦争幾度も主を変えたローマ最終的に東ローマ帝国の手帰した一方東ゴート族残党テーイアを新王に選び抵抗試みたが、東ゴート王国財宝保管してあったカンパニアのクメスをナルセス包囲されてしまい、やむなくナポリ近く山地立て篭もった。552年10月もしくは553年初めに行われたモン・ラクタリウスの戦い (en) がゴート戦争における最後大規模な戦いとなった。狭い渓谷に陣取った東ゴート族頑強に抵抗し東ローマ軍攻略2日要している。この戦いでテーイア戦死し東ローマ帝国勝利確定したその後散発的な抵抗続いたが、イタリアのほぼ全域帝国統治下に入った553年春に東ゴート族同盟結んだブティリヌスとレウタリス(de)(フランク王テウデベルト1世の弟)が(歴史家アガティアス (en) の誇大な数値によれば75,000人のアラマンニ族フランク族兵士率いてイタリア侵入した。彼らは二手分かれてメッシーナ海峡に至るまでイタリア中を略奪し回ったが、疫病によって数を減らした彼らはナルセス反撃を受け、554年秋のウォルトゥルヌスの戦い (en) で壊滅した最後東ゴート族部隊555年にコンプサで降伏し多く兵士たちフランク王国亡命している。最後反乱562年鎮圧され東ゴート族歴史上から姿を消した

※この「ナルセスのイタリア征服(551年 - 554年)」の解説は、「ゴート戦争」の解説の一部です。
「ナルセスのイタリア征服(551年 - 554年)」を含む「ゴート戦争」の記事については、「ゴート戦争」の概要を参照ください。

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