ナルセスのイタリア征服(551年 - 554年)
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「ゴート戦争」の記事における「ナルセスのイタリア征服(551年 - 554年)」の解説
550年から551年にかけて対ペルシャ戦線が落ち着いたことにより、ユスティニアヌス帝は再びイタリア方面へ力を注ぐことが可能になった。ベリサリウスの後任にはゲルマヌス (en) が任命された。ゲルマヌスは皇帝の従兄弟にあたり、またテオドリックの孫娘でウィティギスの妻でもあったマタスンタと再婚しており、東ゴート族に対する政治的効果も期待されていたが、彼は出征準備中に急死してしまう。代わって、ナルセスが最高司令官に任命され、彼には豊富な資金と大幅な権限が与えられた。 ナルセスはランゴバルド族、ヘリール族など蛮族を中心に3万の兵を集め、東ローマ軍はイリュリアを経て、551年に北イタリアに侵攻した。同年秋にアドリア海のセナ・ガリカ(Sena Gallica:現在のセニガッリア)で海戦が行われ、東ゴート艦隊が壊滅している(セナ・ガリカの海戦 (en) )。 長期間の戦いで疲弊していた東ゴート軍は対抗しうる兵力を集めることが難しくなっており、またポー渓谷の彼らの防御拠点は迂回されてしまい、ナルセスの軍隊は中央イタリアのヴェネトに直接進出してきた。東ローマ軍の侵攻を食い止めるべく、トーティラは兵2万をもってブスタ・ガッローウムと呼ばれる狭い渓谷(現在のペルージャ付近)に布陣した。 552年7月1日、この地でブスタ・ガッローウムの戦い(またはタギナエの戦い (en) )と呼ばれる東ローマ軍と東ゴート軍との決戦が行われた。この戦いで東ゴート軍は大敗を喫し、トーティラも戦死した。ナルセスは戦闘では勇敢だが、民間人への蛮行が目に余るランゴバルド族に報償を与えると故郷へ帰した。ナルセスは南下してローマを包囲し、この戦争で幾度も主を変えたローマは最終的に東ローマ帝国の手に帰した。 一方、東ゴート族の残党はテーイアを新王に選び抵抗を試みたが、東ゴート王国の財宝を保管してあったカンパニアのクメスをナルセスに包囲されてしまい、やむなくナポリ近くの山地に立て篭もった。552年10月もしくは553年初めに行われたモン・ラクタリウスの戦い (en) がゴート戦争における最後の大規模な戦いとなった。狭い渓谷に陣取った東ゴート族は頑強に抵抗し、東ローマ軍は攻略に2日を要している。この戦いでテーイアも戦死し、東ローマ帝国の勝利が確定した。その後も散発的な抵抗は続いたが、イタリアのほぼ全域が帝国の統治下に入った。 553年春に東ゴート族と同盟を結んだブティリヌスとレウタリス(de)(フランク王テウデベルト1世の弟)が(歴史家アガティアス (en) の誇大な数値によれば)75,000人のアラマンニ族とフランク族の兵士を率いてイタリアに侵入した。彼らは二手に分かれてメッシーナ海峡に至るまでイタリア中を略奪し回ったが、疫病によって数を減らした彼らはナルセスの反撃を受け、554年秋のウォルトゥルヌスの戦い (en) で壊滅した。 最後の東ゴート族の部隊が555年にコンプサで降伏し、多くの兵士たちがフランク王国に亡命している。最後の反乱が562年に鎮圧され、東ゴート族は歴史上から姿を消した。
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