以下は、メジャーリーグベースボール (MLB) における1923年 のできごとを記す。
1923年4月17日 に開幕し10月15日 に全日程を終え、ナショナルリーグ はニューヨーク・ジャイアンツ が3年連続11度目のリーグ優勝を、アメリカンリーグ はニューヨーク・ヤンキース が同じく3年連続3度目のリーグ優勝をした。
ワールドシリーズ はニューヨーク・ヤンキースが、ニューヨーク・ジャイアンツを4勝2敗で破り初制覇した。
1922年のメジャーリーグベースボール - 1923年のメジャーリーグベースボール - 1924年のメジャーリーグベースボール
できごと
ナショナルリーグはニューヨーク・ジャイアンツ がフランキー・フリッシュ 、ロス・ヤングス 、アイリッシュ・ミューゼル (弟のボブ・ミューゼルはヤンキースに在籍)の打線が好調でペナントレースを3連覇した。一方アメリカンリーグではこの年に新球場ヤンキースタジアムに移ったニューヨーク・ヤンキース のベーブ・ルース が本塁打41本、打点131の二冠に輝き、打率も.393の自己最高打率で活躍して(首位打者はハリー・ハイルマン (DET ) で打率.403)、ジャイアンツと同じくリーグ3連覇となった。
そしてワールドシリーズ では前年極端な不振に終わったルースが名誉を挽回して打率.368で本塁打3本打ち、第4戦以降ヤンキースが3連勝して初の世界一となった。
サイ・ウィリアムズ
この年のナショナルリーグの本塁打王は、フィラデルフィア・フィリーズ のサイ・ウィリアムズで41本であった。ウイリアムズは1915年に12本、1920年に16本で最多本塁打であったが、それがこの年には41本に達し、飛ぶボールの時代を象徴している。
ロス・ヤングス
この年のナショナルリーグの最多得点はジャイアンツのロス・ヤングス の121であった。ヤングスは1918年から1924年まで7年連続3割を打ち、マグロー監督は「私が見た最も優秀な外野手」と高く評価した。大きなタイトルには縁が無かったが1921年からのジャイアンツのリーグ4連覇の時の中軸バッターで打ちまくった選手であった。1926年に腎臓病を患いシーズン途中から欠場し、再びポログラウンズに戻ることなく、翌1927年に30歳の若さで死去した。通算打率.323。(1972年殿堂入り)
ヤンキースタジアム完成
前年までジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズを借りていたヤンキースだが、マグロー監督に追い出される形となり、ポロ・グラウンズのハーレム川対岸のブロンクス地区に新しい球場ヤンキー・スタジアムを建設し、この年4月18日の開幕戦でオープンした。当時としては最大規模を誇り、始球式には当時のニューヨーク州知事アル・スミスが招かれ、試合は3回裏にルースが記念すべき球場第1号の本塁打を打って、4-1でヤンキースが快勝した。一方ワールドシリーズの球場第1号はルースではなく、ニューヨーク・ジャイアンツの選手が第1戦9回表に左中間へランニングホームランを打っている。このシリーズ第1号を打ったジャイアンツの選手の名前はケーシー・ステンゲル。後のヤンキース黄金時代の名監督となった人物である。
レギュラーシーズン
ワールドシリーズ
10/10 –
ジャイアンツ
5
-
4
ヤンキース
10/11 –
ヤンキース
4
-
2
ジャイアンツ
10/12 –
ジャイアンツ
1
-
0
ヤンキース
10/13 –
ヤンキース
8
-
4
ジャイアンツ
10/14 –
ジャイアンツ
1
-
8
ヤンキース
10/15 –
ヤンキース
6
-
4
ジャイアンツ
個人タイトル
アメリカンリーグ
ナショナルリーグ
表彰
シーズンMVP
出典
『アメリカ・プロ野球史』第4章 栄光の日々とその余韻 102-103P参照 鈴木武樹 著 1971年9月発行 三一書房
『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪ロス・ヤングス≫ 60P参照 週刊ベースボール 1978年6月25日増刊号 ベースボールマガジン社
『米大リーグ 輝ける1世紀~その歴史とスター選手~』≪1923年≫ 67P参照
『メジャーリーグ ワールドシリーズ伝説』 1905-2000 上田龍 著 22-23P 92P参照 2001年10月発行 ベースボールマガジン社
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