ロジャー・マリスの年間最多本塁打記録(1961年)について
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「フォード・フリック」の記事における「ロジャー・マリスの年間最多本塁打記録(1961年)について」の解説
ロジャー・マリスはニューヨーク・ヤンキース時代の1961年に、当時の大リーグ年間最多本塁打の61本を放つ。それまで年間最多本塁打の記録を持っていたのは、ベーブ・ルースだった(1927年に記録)。しかし、当時のニューヨークのメディアは、マリスがルースの記録を破るのを快く思っていなかった。コミッショナーのフリックもその一人だった。彼は野球記者時代にベーブ・ルース付きとして親しくしていた。 1961年はMLBの球団数が8球団から10球団に、年間試合が154試合から162試合に増加した年であった。フリックはこの記録達成を快く思っておらず、シーズン途中で「ルースは154試合制の下で打ったので、マリスも実際は162試合ではあるが、154試合目までに上回らなかったら、以後これを打っても新記録として認めない」との声明を発表した。これに対して評論家、記者、ファン達が反発して連日議論が盛り上がり、大変な騒ぎとなった。 問題の154試合が来たが、マリスは154試合目で59号に到達。ルースの60本塁打を超える事が出来なかった。マリスは158試合目で60号、そして162試合目で61号本塁打を放った。アメリカンリーグ会長のジョー・クローニンは「誰が何と言っても新記録と認めざるを得ない」と強気だった。頑固なフリックもついに折れ、154試合制ではルースの60本、162試合制ではマリスの61本と併記する二本立ての記録を認めた。そして、公式記録にアスタリスク(注釈)を付けるように指示したのであった。 このためマリスの記録は長らくアスタリスク扱いを受けたが、1991年当時コミッショナーだったフェイ・ヴィンセントが「記録は統一されるべきものである。マリスは誰よりも本塁打を打った」との見解を出してアスタリスクを外し、「名誉回復」された。
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