第2期黄金時代(ジョー・マッカーシー監督)
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「ニューヨーク・ヤンキース」の記事における「第2期黄金時代(ジョー・マッカーシー監督)」の解説
1929年のシーズン途中にハギンス監督が急死した後にボブ・ショーキーを監督に就任させたが、1930年に3位に終わってわずか1年で解任し、ルパートとバローは29年にシカゴ・カブスをリーグ優勝させたジョー・マッカーシーを監督に招聘し、1932年にはペナントを奪回し、ワールドシリーズも制覇した。そして2年続けて優勝を逃した後に1935年には衰えが目立ってきたベーブ・ルースをルパートとバローは解雇しボストン・ブレーブスにトレードして、ゲーリッグを中心に打線の世代交代を進め、マッカーシー監督の下にヤンキースは新たな進化を遂げた。サンフランシスコ・ベイエリア出身の若い中堅手ジョー・ディマジオの登場はチームにとってのポスト・ルースとも言える存在であった。ディマジオはルーキー年の1936年に打率.323、29本塁打125打点を記録し、強烈なインパクトを残した形でのデビューだった。 そしてゲーリッグ、レッド・ロルフらに代表されるような強打者と並びにレッド・ラフィングやレフティ・ゴメスといった強力な投手陣とそれを支える女房役ビル・ディッキーらがいて、新進のジョー・ディマジオの活躍でヤンキースは1936年から1939年にかけてワールドシリーズ4連覇を達成した。最後の1939年の優勝はシーズン途中で筋萎縮性側索硬化症と診断され引退を余儀なくされたゲーリッグをほぼ欠いた状態で得たものだった。 この時のヤンキースのライバルはデトロイト・タイガースだった。タイガースはヤンキースの4連覇前の2年間優勝してヤンキースのワールドシリーズ出場を阻止しており、また、5連覇を阻んだのも彼らであった。しかし、ヤンキースはワールドシリーズに出れば強かった。1936年のワールドシリーズでのジャイアンツとの試合では18-4で下し、同一チームによる最多得点記録(2005年まで)を成し遂げた。そのシリーズでは4勝2敗で勝ち取り、翌年も4勝1敗。さらに、1938年のシカゴ・カブス、1939年のシンシナティ・レッズとの対戦ではいずれも4連勝でワールドシリーズを勝ち抜けた。メジャーでの選手経験がないマッカーシー監督は1946年途中までの16年間ヤンキースの監督を務め、リーグ優勝8回、ワールドシリーズ優勝7回の成績を残した。
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