ディマジオの後継者探し
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「1949年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ディマジオの後継者探し」の解説
この頃のヤンキースにとって不安材料はジョー・ディマジオであった。1936年にメジャーデビューした年は、ベーブ・ルースが去ったがルー・ゲーリッグは健在で、この年から4連覇したことで第2期黄金時代と言われた。1941年には56試合連続安打を記録して常に注目されるスター選手であった。彼はルースからゲーリッグに繋がれ、そして受け継いだヤンキースの主砲であり、華麗な守備と力強い走塁で攻守走の全てにわたってチームリーダーであった。そのディマジオが選手として最も充実して絶頂期を迎えるはずだった時期に第二次大戦で兵役に就き戦後復帰してからは、かつてのような打棒も強肩も示すことが少なくなり、もはや全盛期のような力を取り戻せない、と考えたゼネラルマネージャーのジョージ・ワイスはその後継者探しに取り組んだ。それは終戦直後からヤンキースの課題であると彼は認識していた。ちょうどドジャースのブランチ・リッキーのもとでジャッキー・ロビンソンの入団に功績のあったスカウトのトム・グリーンウェイドをヤンキースに迎え入れ、その他のスカウト網も駆使して全米でポスト・ディマジオを探し求めていた。 1949年の春に、オクラハマ州コマースのセミプロ球団に在籍する高校生で凄い奴がいる、との情報を聞きつけたトム・グリーンウェイドは早速訪ねてみると、その日の昼に高校の卒業式があってその夜にナイトゲームがあり、その試合に足を運ぶとその高校生は火の出るような当たりを連発しグリーンウェイドを驚かせた。すぐに契約金1,100ドル、マイナーリーグ参加報酬400ドルでこの若者と入団契約を結んだ。後に年俸10万ドルの選手となり、1950年代から60年代にかけてヤンキースのスーパースターとして活躍し、やがて満身創痍の傷だらけの身体となりながらプレーして彼の選手としての凋落がヤンキース球団の凋落にもなったが、しかしデビュー時の輝くような存在感をファンは忘れなかった。この若者がミッキー・マントルである。
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