ディマジオの引退とマントルの登場
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「1951年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ディマジオの引退とマントルの登場」の解説
ジョー・ディマジオがこの年限りで引退した。1,736試合に出場して通算打率.325・打点1,537・本塁打361本の記録を残した。三冠王に二度輝き4割打者となったテッド・ウイリアムズに比べると成績は劣るが、1941年の56試合連続安打の樹立はもう2度と破られない記録として球史に燦然と輝き、ワールドシリーズ出場10回でシリーズ制覇9回の実績を残して自身は8本の本塁打を打っている。首位打者2回、打点王2回、本塁打王2回、リーグMVP3回。1955年に殿堂入りした。 そのジョー・ディマジオの引退と同時にヤンキースの主砲の後継者としてオクラホマ生れのミッキー・マントルがメジャーリーグに登場した。前年にC級マイナーリーグのジョブリンで打率.383・打点136・本塁打26本の好成績を収めた19歳のマントルは守備が遊撃であったが、この年の春季キャンプに呼ばれて、戦前から戦後にかけてビル・ディッキー捕手やジョー・ディマジオらとともにヤンキースの主軸でありこの年からコーチになったトミー・ヘンリック外野手の指導を受けて内野から外野にコンバートされることになった。そしてステンゲル監督はマントルを開幕からいきなり1番ライトで起用した。前年のマイナーリーグは当時でいうC級でそこからB級・A級・AA級・AAA級を5階級特進してメジャーデビューであった。しかし「ディマジオの後継者」としてのプレッシャーに押しつぶされて大スランプに陥り、ステンゲルはAAA級のアメリカンアソシェーションのカンサスシティ球団に降格させた。ここの監督はベーブ・ルースの後を守り1936年からヤンキース4連覇に貢献したジョージ・セルカークであった。そしてカンザスシテイでの最初の試合でマントルはいきなりドラッグバントで内野安打で出塁した。マントルは長打力がある一方で足が速く、デビュー当時は球界随一の快足と言われ、後に打って一塁までの到達速度は3秒1でメジャーリーグでは最高記録を持っていた。しかし、これを見たジョージ・セルカーク監督は戻ってきたマントルを叱責し「いいかミッキー、お前はバントをするためにここへ来たのではない。ヤンキースはお前に選球眼と自信を取り戻すためにここへ送り込んだんだ。どでかい当たりを俺の前で見せてみろ」と怒鳴った。戦前にゲーリッグやディマジオとともに黄金時代に貢献したセルカークは、マントルに次のヤンキースの時代を背負う大打者に期待していた。しかし、その後もノーヒットが続き野球に対する情熱を失いかけたマントルを、父のマット・マントルが訪ねてきて「お前がそれほどに根性がないなら、オクラホマに帰れ。そして俺のように一生炭鉱夫で安い賃金で働くのだ。それでもいいのか」と一喝した。ファンであったタイガースの強打者ミッキー・カクレーンの名から息子にミッキーと名付け、小さいころから野球の英才教育をして左右どちらも打てる希代のスイッチヒッターに育て、かつ打球を遠くに飛ばすことにかけては抜きんでた力を持ち、そして俊足の持ち主だった息子を叱咤激励して、ミッキーはやがて調子を取り戻した。彼が左右どちらも打てる打者であることは、ステンゲル監督がこの時期のヤンキースで採用したツープラトーンシステム(右投げ投手には左打者を揃え、左投げ投手には右打者を揃える先発打線を組むこと)ではどちらでも常時出場することとなり、後に計測できる本塁打記録においてメジャーリーグ最長距離の本塁打を打つこととなった。しかしこれほど類い稀な素質に恵まれた打者でありながら、この年の初めて出場したワールドシリーズの第2戦で、後にライバルとなるウィリー・メイズが打った打球を追って転倒して右ヒザを骨折し、これがミッキー・マントルの野球人生で満身創痍になって引退するまでずっと彼を苦しめる故障との長い闘いの始まりとなった。
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