ブラバム時代
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1989年は、デビューチームであるブラバムから参戦するが、ブラバム・BT58のトラブルの多さもあってリタイヤは16戦中10回を数えた。また第12戦イタリアGPでは、車重測定無視により、地元にもかかわらず決勝を走行出来ない事態も発生した。そんな中でも、第3戦モナコGPでは予選8位から3位に入り、初入賞・そして初の表彰台を経験。モデナは、その後も「ストリートコース」で、しばしば才能を発揮することとなる。この年、被オーバーテイク数は68を数えF1記録(同記録は2012年にシャルル・ピックが更新)となった。 翌1990年は、開幕戦アメリカGPで予選10位から5位入賞、前年に続きストリートコースで技術を発揮した。その後は入賞が無く、リタイヤも9回と苦しいシーズンとなったが、グレガー・フォイテク、デビッド・ブラバムのチームメイト2人には、16戦全勝。ブラバムが6度の予選落ちを喫したのに対し、全戦で決勝にも進出している。同年ポルトガルGPの予選2日目にティレルが会見を開き、翌シーズンからモデナが加入しティレル・ホンダのエースドライバーとなることを発表した。契約は1年プラスもう1年のオプション付きであることも併せてリリースされた。
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ブラバム時代
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ブラバムに新オーナー、バーニー・エクレストンが就任し、開発部門からラルフ・ベラミーが離脱すると、マーレイがチーフデザイナーに昇格した。1973年のBT42に始まり、1985年にかけて、マレーのデザインしたブラバム製シャシーはグランプリで22勝を挙げ、1975年と1981年にはコンストラクターズ・ランキング2位を獲得。さらに1981年と1983年にはネルソン・ピケをドライバーズ・チャンピオンの座に就かせた。 マレーのマシンは三角形の断面をもつピラミッドモノコック、表面冷却のBT46プロトタイプ、ファン・カーとして知られるBT46Bなど、個性的なアイデアとレギュレーションの盲点を突く意外性に富んでいた。1970年代には、いち早くウイングやブレーキディスクにカーボン素材を導入したが、モノコックに関しては剛性を不安視し、しばらくは従来のアルミハニカム素材との併用に止めていた。 1981年には当時の車高6cm規定をクリアするため、走行中に車高を下げられるハイドロニューマチック・サスペンションを搭載したBT49を開発。1983年にはレース中の再給油作戦を想定し、燃料タンクを小型化したBT52を開発するなど、ライバルチームを出し抜く発想で優位を得た。 1983年にフラットボトム規制が始まって以降、マシン後底部を跳ね上げることでグラウンド・エフェクトを発生するデザインに反発し、全高を低くして前後ウイングのダウンフォース発生効率を最大化するロウ・ライン・コンセプトにこだわった。その顕著な作品が1986年のBT55で、マシンの全高を低くするためにBMW直4ターボエンジンを水平方向に73度傾けて搭載した。そのフォルムは他のマシンより異様に平たく、「スケートボード」「フラットフィッシュ(ヒラメ)」などの異名を取った。エンジンを傾けるアイデア自体は、1950年代のメルセデス・ベンツ・W196という成功例があったが、BT55ではトラブルを頻発し十分な成績を上げられなかった。
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ブラバム時代
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1965年にブラバムからF1デビューし、計6戦に参加。第4戦フランスGPで4位、第6戦オランダGPで5位と2度の入賞を果たした。翌1966年は、第3戦フランスGPで3位に入り、初の表彰台を記録。年間で2位1回、3位3回を記録し、シリーズ4位となった。 1967年には、第2戦モナコGPで初優勝、この時点でランキングトップに立つ。第7戦ドイツGPでも優勝する等、この年11戦中2勝、2位3回、3位3回、4位1回と安定した成績を残し、モナコ以後一度もランキングトップの座を譲らず、ワールドチャンピオンを獲得。 チームのNo.1ドライバー兼オーナーのジャック・ブラバムを破ってのチャンピオン獲得劇だったが、このことは同年限りでチームを追われる原因となった。
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ブラバム時代
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1978年 完走したレースは2勝、2位3回、3位2回と安定して速かったが、BT46はラウダの見込みに反して信頼性が低く、全16戦中6戦をマシントラブルで、3戦をアクシデントでリタイアし、ランキング4位で終わった。スウェーデングランプリではファン・カーと呼ばれたBT46Bに乗り優勝したが、リアエンドに取り付けられた冷却用ファンが禁止されている「可動する空力デバイス」に当たるとのクレームを受け、次レースから同システムの使用が禁止された。 また、この年にラウダ航空を設立し実業家としてのキャリアが本格スタート。チャーター便の航空市場に参入した。 1979年 ブラバムはアルファロメオ製V12エンジンを搭載するBT48で戦っていたが、パワーはあるものの信頼性が低く結果が伴わなかった。また、同年にはアルファロメオのワークスチームがF1に復活しており、エクレストン代表はブラバムがアルファロメオからセカンドチーム扱いされることを避けたい事情から、搭載エンジンをV型8気筒のフォード・コスワース・DFVエンジンへ変更することを決定。シーズン終盤の第14戦カナダグランプリにDFVエンジン搭載の新車BT49を投入した。ラウダはこの新車をカナダGP初日のフリープラクティスで走らせた後、予選開始を前に突然レーサーを引退すると発表する。「同じ場所(サーキット)を何回も何回も走りまわらなくてもよくなったんだ。一生の終わらないうちに、やっておくべきことが他にあると思うんだ」と理由を語ったが、自著『To Hell And Back』においては、レースに対するモチベーションの低下を明かしている。エクレストンとの交渉で、200万ドルの契約延長を勝ち取ったが、同時に興味を失っていることに気付いたほか、これまで乗ってきた高回転型のV12エンジンに比べ、DFVエンジンは「音が平らでこもっており、何もかもが遅く感じられ、退屈だった」ためという。引退後は、実業家としてラウダ航空の経営に専念することとなった。
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ブラバム時代
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「デレック・ワーウィック」の記事における「ブラバム時代」の解説
1986年にはロータスへの移籍がほぼ確実視されながら、当時ロータスのNo.1ドライバーだったアイルトン・セナが、ワーウィックをチームメイトとすることを拒否。これにより、ロータスはセナのチームメイトにF1ルーキーであるジョニー・ダンフリーズを抜擢、ワーウィックは浪人のままF1開幕を迎えることとなった。世界スポーツプロタイプカー選手権(WSPC)のシルクカット・ジャガーからオファーがあり、ジャガー・XJR-6で参戦した。 しかし5月、ブラバムから参戦していたエリオ・デ・アンジェリスがポール・リカールでのテスト走行中に事故死。第6戦カナダグランプリより、ワーウィックが代役としてブラバムに加入することとなった。同年のマシン「BT55」は、低重心化を意識しすぎた結果シャシーバランスや熟成を欠いており苦戦、入賞を記録することはできなかった(最高位:7位)。チームメイトのリカルド・パトレーゼに対し予選成績で3勝8敗だった。
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ブラバム時代
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「エリオ・デ・アンジェリス」の記事における「ブラバム時代」の解説
1986年 1986年のブラバムのマシン「BT55」は、ゴードン・マレーのアイディアによって車高を極限まで低くした特殊な形状だった。安定性を高めることを狙った結果だったが、BMWのターボエンジンを傾けて搭載し、ホイールベースを極端に長くせざるを得なくなる等、様々な面で支障をきたし、かえって安定性は低下。扱いにくいシャシー特性だった上にマシントラブルも続出し、デ・アンジェリスは第4戦モナコGP終了時点でノーポイントだった。 これらの状況を打開すべく、チームはモナコGPから3日後の5月14日に、フランスのポール・リカール・サーキットでの合同マシンテストに参加。しかしその最中に、高速S字カーブを走行中にリアウイングが突如脱落し、クラッシュ。大きな事故であったにもかかわらず、この事故で受けた怪我自体は致命傷にはならなかったが、救出の遅れにより出火したマシンに長時間取り残された為に、窒息し酸欠状態となってしまう。病院に搬送されるも脳死状態となり、翌15日に死亡した。28歳没。 葬儀はローマにて行われ、2万人の参列者が別れを告げたと言われている。この事故を契機として、テスト実施時においてもグランプリ開催時と同等の安全対策、マーシャルの配置がされるようになった。この事故の後、F1では1994年第3戦サンマリノGPを迎えるまで、死亡事故が起こることは無かった。
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ブラバム時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:25 UTC 版)
1978年 第15戦アメリカ東グランプリを欠場後、最終戦カナダグランプリにはブラバムにて出走(11位完走)。これは、翌1979年よりニキ・ラウダのNo.2ドライバーとしてブラバムに移籍することが決まっていたが、オーナーのバーニー・エクレストンの計らいにより、同年中からブラバムでの出走が実現したものであった。 1979年 フル参戦1年目ながら、第6戦ベルギーグランプリ、第9戦イギリスグランプリで予選3位につけるなど速さを見せ、若手の有望株として注目を集めた。アルファロメオ製V型12気筒エンジンの信頼性が低く、なかなか結果には繋がらなかったが(結果的に15戦中リタイヤ9回)、第12戦オランダグランプリでは4位に入り、初入賞を果たした。 また第14戦カナダグランプリのフリー走行後に、チームのエースドライバーだったニキ・ラウダが突如引退を表明。ピケはNo.1ドライバーに昇格することとなった。最終戦アメリカ東グランプリでは、予選2位とフロントローを獲得している(決勝は8位)。 1980年 この年は大きく重いアルファロメオからスタンダードなフォードDFVにエンジンが変更されたが、これがかえってマシンの軽量化になり戦闘力を大幅に向上させ、開幕戦アルゼンチングランプリ では2位初表彰台を獲得。第4戦アメリカ西グランプリでは、予選で初ポール・ポジション(以下:PP)を獲得し、決勝でも終始トップを走行し初優勝、ファステストラップ(以下:FL)もマークした。 その後も安定してポイントを積み重ね、ウィリアムズのアラン・ジョーンズとチャンピオン争いを展開、終盤には第11戦オランダグランプリ・第12戦イタリアグランプリを連勝し、ランキングトップに立った。しかし第13戦カナダグランプリではトップ走行中にエンジントラブルでリタイヤ、このレースで優勝したジョーンズに逆転を許した。続く最終戦アメリカ東グランプリも電気系トラブルでリタイヤとなり、ランキング2位に終わった(計3勝、2PP)。 チャンピオンは逃したものの、14戦中入賞10回(うち表彰台6回)と、後に持ち味となる安定感を発揮。ここから、エースとしてブラバムの第2期黄金時代を作り上げることとなる。 1981年 ジョーンズ及びカルロス・ロイテマンのウィリアムズ勢とチャンピオン争いを展開。第3戦アルゼンチングランプリにて、シーズン初優勝をポール・トゥー・ウィンを達成すると、第4戦サンマリノグランプリも連勝。その後5戦中4度のリタイヤとやや停滞するも、第10戦ドイツグランプリでシーズン3勝目を挙げて以降は、連続入賞でランキングトップのロイテマンを猛追した。 ランキングで同率首位で迎えた第13戦イタリアグランプリでは、2位走行中の最終周にエンジントラブルでストップ(6位完走扱い)。残り2戦で3ポイントのビハインドを抱えるが、しぶとく食らいつき、1ポイントのビハインドで最終戦ラスベガスグランプリを迎えた。酷暑の中の開催となったこのレースで、ピケは失神寸前の状況に陥りながらも5位に入り、一方のロイテマンはノーポイント(8位)。第2戦ブラジルグランプリ以降、ランキングトップを守っていたロイテマンを上回り、最終戦での逆転で自身初の王座を手にした。この年、ピケがランキング単独トップとなったのは、この最終戦終了後だけであった。ブラジル人としては、エマーソン・フィッティパルディに次いで2人目のワールドチャンピオンとなった。 この年も15戦中入賞10回(うち表彰台7回)と、安定した成績を残し、予選では4度のPPも獲得した。 1982年 BMW開発のターボエンジンの完成度が低く苦戦。第2戦ブラジルグランプリでは前年のフォードNAエンジン搭載車を引っぱり出して息を吹き返し、トップでゴールしたがレース後の車検で最低重量違反となり失格。第7戦デトロイトグランプリでは、予選落ちまでも喫した。第8戦カナダグランプリでは優勝したが、その後もシーズンを通して苦戦を強いられた。第12戦ドイツグランプリでは、シーズン2勝目のチャンスが巡ってきたが、エリセオ・サラザールを周回遅れにする際、サラザールに接触されリタイヤとなった。結局、ランキングで僚友リカルド・パトレーゼより下の11位に終わった。 1983年 開幕戦ブラジルグランプリで優勝を飾るが、以後はルノーのアラン・プロストに後塵を拝し、優勝に手の届かないレースが続いた。一方でポイントは安定して積み重ね、終盤においてもチャンピオンの可能性を残していた。 そんな中第12戦オランダグランプリでは、シーズン初のPPを獲得。決勝でもスタートからトップを走行するが、バトルの中でプロストに接触され両者リタイヤした。ピケのマシンは既にトラブルを抱えており、実はプロストはもう数周待てば難なく首位に立てる状況だったという。この接触から、シーズンの流れが大きく変わることとなる。 オランダグランプリ終了時点では、残り3戦でプロストに14ポイントのリードを許していたピケだが、第13戦イタリアグランプリ・第14戦ヨーロッパグランプリを連勝、2ポイント差にまで詰め寄り、最終戦南アフリカグランプリを迎えた。南アフリカグランプリは終始ブラバム勢のペースとなる中、プロストは早々リタイヤ。無理をする必要がなくなったピケは、パトレーゼを先行させるなど徹底的に安全策を取る走りで3位フィニッシュ、1981年同様最終戦での逆転で2度目の王座を獲得した(シーズン3勝)。この年は全15戦中入賞10回(うち表彰台8回)を記録し、安定した成績も初チャンプ獲得時と同様であった。ブラバムで2度王座に就いたドライバーはピケが初であり、結果的に唯一となった。 1984年 1984年はマクラーレン・MP4/2がラウダとプロストのコンビでシーズンを席巻。ピケは予選でこそ、当時のシーズン最多記録となる9度のPPを獲得、決勝でも3度のFLなど速さを見せたが、優勝は2度。全16戦中リタイヤが9回にのぼるなど、マシントラブルが多発したこともあり持ち味であるコンスタントなポイント獲得がならず、ランキング5位に留まった(入賞6回・うち表彰台5回)。 1985年 ブラバムの戦闘力はさらに下降気味であり、前年以上の苦戦を強いられた。 ピレリタイヤのタイヤ選択がはまった酷暑の第7戦フランスグランプリでは勝利を挙げるが、これを含め表彰台は2度、入賞自体も5度に留まり、ランキングは8位と更に下がってしまった。 1978年から所属したブラバムは完全No.1待遇の「ピケのための」チームになっており、ピケ自身は翌シーズンもブラバムに残留することを考えていた。しかし、ピケに獲得の打診を寄せたウィリアムズ・ホンダからの提示額よりもブラバムでの契約金が少なかった事への不満から、チーム能力がブラバムと同等以上となっていたウィリアムズに移籍することを決めた。
※この「ブラバム時代」の解説は、「ネルソン・ピケ」の解説の一部です。
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