制作まで
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「奥の細道 (姫神のアルバム)」の記事における「制作まで」の解説
リーダーの星吉昭は、東京での音楽活動の後、岩手に拠点を移し、放送局などでの音楽制作を行っていた。1980年の秋頃から岩手放送のラジオ番組の合間に「奥の細道」が流され始めた。詳しい紹介もなく「姫神せんせいしょんで、奥の細道」というナレーションの後に曲が流されるだけだったが、徐々に反響を呼び、1981年2月にシングルレコードとしてリリースされる(B面は「耶馬台国の夜明け)。その後、岩手県内の駅の構内で使用されたり、岩手放送のチャート番組でも10位以内に入ったりという反響があった。 そうした反響を経て制作されたのが本作である。
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制作まで
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キティ・フィルムの多賀英典社長は、本作及び、キティ・フィルムの設立は、長谷川和彦が黒澤満と伊地智啓を誘って、日活を離れて自分たちで映画を作りたいと僕の会社に来てくれたのが始まりと述べている。多賀はポリドールの音楽ディレクター・プロデューサーとして、小椋佳や井上陽水らを手がけ、独立してキティ・レコードを作ったが、自分の事業を展開していくにはどうしても映画が必要という目論見を持っていた。 山本又一朗プロデューサーは、多賀英典社長が出資し、プロデューサーが自分で、脚本が村上龍、監督が長谷川和彦という座組みで映画を創ろうと話し合っていたと述べている。座組みには長谷川の助監として相米慎二もいて、伊地智は「梁山泊みたいなヤバイところに来てしまった。こんな面子では映画は出来るわけはない」と思ったという。その通り畑違いの人間の集まりで上手くいかず、山本はグループを抜けて『ベルサイユのばら』の企画に移った。村上龍は長谷川のために5本の脚本を執筆した(その中には、後の小説『コインロッカー・ベイビーズ』の原型となったものもある)が、いずれも長谷川は却下した。 多賀は、「長谷川が村上龍を僕に紹介し、村上の脚本で行くとなっていたのですが、長谷川が全部ボツにしてレナード・シュレイダーと組んで『太陽を盗んだ男』をやることになったのです。最初は山本又一朗も関わっていたのですが、山本は途中で抜けて『ベルサイユのばら』の製作でフランスに行き、帰って来たところで、予算オーバーは僕が責任を持つからと『太陽を盗んだ男』の製作を進めさせました。結局、伊地智はプロデューサーからは外れて、実際のところは山本がプロデューサーになったんです」と証言している。
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