制作の背景と発表
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「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」の記事における「制作の背景と発表」の解説
伊藤左千夫は1893年から知人から学んだ短歌を詠むようになったが、当初は古今和歌集の流れをくむ月並調の伝統的な短歌を詠んでいた。その後、桐廼舎桂子(きりのやかつらこ)から万葉調の和歌を学ぶ。1900年1月、左千夫は正岡子規に出会う。子規に傾倒した左千夫は子規主催の歌会の常連となり、弟子となった。子規は写生を基本として短歌を詠むことを唱えており、正岡子規の弟子である伊藤左千夫もまた、写生の理念に基づいて短歌や小説を書くようになった。 子規は晩年、肺結核に苦しみ、思うようにものが書けないと嘆きながらも優れた短歌を生み出した。1901年4月28日、病床の子規は 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり に代表される、藤を題材とした短歌の連作を詠む。 子規が藤を題材とした短歌を詠んでからさほど間を置かずして、左千夫は自宅近くの亀戸天神に藤の花を見に行き、やはり藤を題材とした短歌の連作を詠んだ。 連作には 亀井戸の藤もはや末になりたらむを、今一たび見ばやと思へる折しも、心合へる人より、雨だに降らねば明日は午後に参るべしと消息あり、嬉しく待ちしかひは無くて、その日もまた朝より小止みなき雨なれば待つ人も来らず、口惜さ徒然さに、やがて雨を冒して一人亀井戸に至りぬ と、藤の花の季節が終わる頃、もう一度藤の花を見たいと思っていたら、友人から雨で無ければ明日の午後に行きますとの連絡があり、嬉しく思いながら待っていたものの、当日は朝から雨が降り続き友人は来ず、くやしさと退屈さから、雨の中一人亀戸天神へ行ったことが説明されている。 左千夫の藤の連作は10首であり、「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」は4作目であった。左千夫の短歌は子規の藤の連作を意識しながら制作されたものと考えられている。当時、左千夫は藤の花の他にも子規が牡丹の花を詠んだ後に牡丹の連作を詠むなど、子規から短歌の素材から発想方法、そして表現や技法をなぞるように学んでいた。 1900年5月に子規が制作した雨中の松を詠んだ10首の歌をヒントにして、左千夫は「短歌連作論」を提唱するようになった。これは子規の手法を学んでいく中で、子規の詠んだ10首をヒントにして、短詩型である短歌の宿命として一首では語り尽くせない感動を、連作によって表現しようとするものであった。藤の連作10首は「短歌連作論」に基づく作品であり、左千夫は晩年に至るまで連作を詠み続けていく。また本作は前述の子規の「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」の他に、万葉集の大伴家持の和歌、「池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を袖にこきれな」も念頭に置いて作歌したとの説がある。 左千夫が詠んだ藤の連作10首は、1901年7月1日に刊行された「心の花」4の7紙上に、「をりをりの歌」を総題として長歌「紙鳶」とその反歌、連作である「牡丹」とともに掲載された。伊藤左千夫は1913年7月30日に亡くなったが、生前、歌集が発表されることはなかった。左千夫の死後、1920年9月に春陽堂から左千夫全集の第一巻として「左千夫歌集」が刊行され、その後1931年1月には岩波書店から「増訂左千夫歌集」が刊行された。
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