制作の経緯と銘文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 09:14 UTC 版)
本来は、繡帳自体に製作の事情を記した銘文が刺繡で表されていた。現存する天寿国繡帳には4か所に亀が描かれ、それぞれの亀の甲羅に漢字が4字ずつ刺繡で表されているが、これらの文字は繡帳に表されていた銘文の一部である。たとえば、現存の繡帳の左上にある亀形には「部間人公」の4字が見えるが、これは「孔部間人公主」という人名の一部である。額装の繡帳とは別に保管されている残片2点のうちの1点も亀形であり、これを含めても現存する亀形は5個、文字数は20字にすぎないが、制作当初の繡帳には全部で100個の亀形が表され、その甲羅に計400文字が刺繡されていたと推定される。この銘文の全文は『上宮聖徳法王帝説』に引用され、一部に誤脱があるものの、飯田瑞穂の考証によって400字の文章に復元されている。 以下に『天寿国繡帳』の銘文の原文を掲げる(『上宮聖徳法王帝説』に引用された銘文をもとに、飯田瑞穂が考証・校訂を加えたもの)。銘文は繡帳の上では4文字ずつに区切って表されていたので、ここでも4文字ずつに区切って表記する。太字の5か所(20文字)は現存する繡帳に残っている文字である。 斯帰斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意斯波留支 比里爾波 乃弥己等 娶巷奇大臣名伊奈 米足尼女 名吉多斯 比弥乃弥己等為大 后生名多 至波奈等 已比乃弥己等妹名 等已弥居 加斯支移 比弥乃弥己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 弥己等為后生名孔 部間人公 主斯帰斯 麻天皇之子名蕤奈 久羅乃布 等多麻斯 支乃弥己(3字目は草冠の下に左に「豕」、右に「生」等娶庶妹 名等已弥 居加斯支 移比弥乃弥己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名尾治王多 至波奈等 已比乃弥 己等娶庶妹名孔部 間人公主 為大后坐 瀆辺宮治天下生名 等已刀弥 弥乃弥己 等娶尾治大王之女 名多至波 奈大女郎 為后歳在辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩于時多至 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天皇前曰啓 之雖恐懐 心難止使 我大皇與母王如期 従遊痛酷 无比我大 王所告世間虚仮唯 仏是真玩 味其法謂 我大王応生於天寿 国之中而 彼国之形 眼所叵看(終わりから2字目は「はこがまえ」に「口」)悕因図像 欲観大王 往生之状 天皇聞之悽然告曰 有一我子 所啓誠以 為然勅諸采女等造 繡帷二張 画者東漢 末賢高麗加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻 (読み下しの例)銘文の前半部分(欽明天皇から聖徳太子、橘大女郎に至る系譜を記す)は割愛し、繡帳の制作経緯に係る内容が記された後半部分の読み下し文を掲げる。 歳(ほし)は辛巳に在(やど)る十二月廿一癸酉日入(にちにゅう)、孔部間人(あなほべのはしひと)母王崩ず。明年二月廿二日甲戌夜半、太子崩ず。時に多至波奈大女郎(たちばなのおおいらつめ)、悲哀嘆息し、天皇の前に畏み白(もう)して曰く、之を啓(もう)すは恐(かしこ)しと雖も懐う心止使(とど)め難し。我が大皇と母王と期するが如く従遊(しょうゆう)す。痛酷比(たぐ)ひ无(な)し。我が大王の告(の)る所、世間は虚假(こけ)、唯だ仏のみ是れ真なり、と。其の法を玩味するに、謂(おも)えらく、我が大王は応(まさ)に天寿国の中に生まるるべし、と。而るに彼の国の形、眼に看叵(みがた)き所なり。悕(ねがは)くは図像に因り、大王往生之状(さま)を観むと欲す。天皇之を聞き、悽然として告(の)りて曰く、一の我が子有り、啓(もう)す所誠に以て然りと為す、と。諸(もろもろ)の采女等に勅し、繡帷二張(ぬいもののとばりふたはり)を造る。画(えが)く者は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、又漢奴加己利(あやのぬかこり)、令(うなが)す者は椋部秦久麻(くらべのはだのくま)なり。 (上記読み下し文の大意) 辛巳の年(推古天皇29年・西暦621年)12月21日、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。太子は『世の中は空しい仮のもので、仏法のみが真実である』と仰せになった。太子は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像によって太子の往生の様子を見たい」と。これを聞いた推古天皇はもっともなことと感じ、采女らに命じて繡帷二帳を作らせた。画者(図柄を描いた者)は東漢末賢(やまとのあやのまけん)、高麗加西溢(こまのかせい)、漢奴加己利(あやのぬかこり)であり、令者(制作を指揮した者)は椋部秦久麻(くらべのはだのくま)である。 銘文にある「天寿国」とは何を指すかについては古来さまざまな説があったが、阿弥陀仏の住する西方極楽浄土だという説が有力である。東野治之は、飛鳥・奈良時代には阿弥陀浄土以外にも薬師浄土、弥勒浄土など複数の浄土への信仰があったことをふまえ、「天寿国」とは天界の寿命を生きられる国、すなわち弥勒の浄土である兜率天を指している可能性を指摘する。
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