制作の背景とその過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 14:57 UTC 版)
「桑実寺縁起絵巻」の記事における「制作の背景とその過程」の解説
足利義晴は、管領細川高国に擁立され、将軍職に就いた。しかし、1527年(大永7年)、桂川原の戦いで、高国が柳本賢治・三好政長ら反高国派に敗れたことで、高国と義晴らは京都を追われ、近江各地を転々とし、1531年(享禄4年)、この地の守護であった六角定頼の庇護を得て、桑実寺に仮幕府を構えた。 寺僧から寺の由来を聞いた義晴は、縁起絵巻の奉納を思い立ち、絵巻制作の経験が豊富な三条西実隆に制作を依頼した。翌1532年(享禄5年)1月、実隆は、史料が乏しく難渋しながらも、わずか8日で草案を仕上げた。清書(きよがき)は上巻の第1段と上下巻外題を後奈良天皇より賜り、残りを実隆と尊鎮法親王が分担した。絵師は義晴が土佐光茂を指名した。 そして、1532年(天文元年)8月17日、将軍義晴の花押が記され、絵巻は完成し、本尊へ奉納された。 なお、奉納日は、実隆の叔父である甘露寺親長の三十三回忌でもあった。実隆は6歳で父公保を亡くし、親長は父に代わる存在であった。奉納日と忌日が重なったのは、偶然ではなく、「老獪なる公家は、若き流浪の将軍による絵詞執筆依頼を、みずからの親族供養へと巧みに転化した」のである。 上巻の第3段に登場する定恵は、藤原鎌足の長男で不比等の兄にあたる人物だが、これは京を離れざるを得なかった義晴が、自らの為政者としての正統性を訴えるべく、近江に都を置いた天智天皇と共に絵巻に取り入れたと考えられる。また、薬師如来の加護を受けて、京へ帰還する願いも込められていたのではないとみられる。 この絵巻を上下合わせて7段としたのは、実隆が七仏薬師を意識したからではとの説がある。
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