制作の経過
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「プルチネルラ (バレエ)」の記事における「制作の経過」の解説
スカルラッティの音楽による『上機嫌な婦人たち』(1917年)、ロッシーニの音楽による『風変わりな店』(1919年)と、イタリア音楽にもとづくバレエを制作してきたバレエ・リュスの主宰者セルゲイ・ディアギレフは、1919年春頃には次回作としてペルゴレージの音楽に基づくバレエを構想していた。また、ディアギレフの同性愛の相手でもあったバレエ・リュスの振付師レオニード・マシーンはナポリ滞在中にコメディア・デラルテに興味を持ち、サン・カルロ劇場に隣接した王宮図書館で18世紀の即興劇の台本を研究し、その動きをバレエに応用することを考えた。 こうして、ペルゴレージの音楽による、プルチネッラを主人公としたバレエを作ることを決定したディアギレフとマシーンはサンピエトロ・ア・マイエラ音楽学校の図書館に保管されていたペルゴレージの手稿や印刷譜の中から18曲を選びだし、1919年秋にストラヴィンスキーに「ハープを含む大編成管弦楽」への編曲を依頼した。 『プルチネルラ』の素材となった楽曲はかつて全てがペルゴレージ作と考えられていたが、その後の音楽研究により、他の作曲家(具体的にはドメニコ・ガロ、ウニコ・ヴィルヘルム・ファン・ヴァッセナール、アレッサンドロ・パリゾッティ、カルロ・イグナチオ・モンツァ、フォルトゥナート・ケッレリ)によるものも含まれていることが判明している。 ストラヴィンスキーはこれらの原曲を素材としながらも、リズムや和声は近代的なものを取り入れた独自の新古典主義のスタイルに作り替え、ディアギレフの意向は無視して、ハープ・打楽器はおろか、クラリネットさえ含まない合奏協奏曲風の小編成の作品とした。ストラヴィンスキーの「作曲」は、1920年4月にかけて、スイスのモージュ(Morges)で行われた。 ディアギレフは完成した作品が要望通りでなかったために驚愕したがこれを了承し、大編成管弦楽を前提にしていたマシーンの振り付けは音楽に合わせたコンパクトなものに作りかえられた。 一方、『パラード』、『三角帽子』に引き続き舞台美術と衣裳を担当したパブロ・ピカソは、デザインをめぐってディアギレフと対立しながらも、月明かりに照らされるナポリの街並みと海をキュビスム風に表現した美しいセットと、コメディア・デラルテの伝統的を活かした衣裳を作り上げた。
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制作の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 18:47 UTC 版)
スカルラッティの音楽による『上機嫌な婦人たち』(1917年)、ロッシーニの音楽による『風変わりな店』(1919年)と、イタリア音楽にもとづくバレエを制作してきたバレエ・リュスの主宰者セルゲイ・ディアギレフは、1919年春頃には次回作としてペルゴレージの音楽に基づくバレエを構想していた。また、ディアギレフの同性愛の相手でもあったバレエ・リュスの振付師レオニード・マシーンはナポリ滞在中にコンメディア・デッラルテに興味を持ち、サン・カルロ劇場に隣接した王宮図書館で18世紀の即興劇の台本を研究し、その動きをバレエに応用することを考えた。 こうして、ペルゴレージの音楽による、プルチネッラを主人公としたバレエを作ることを決定したディアギレフとマシーンはサンピエトロ・ア・マイエラ音楽学校の図書館に保管されていたペルゴレージの手稿や印刷譜の中から18曲を選びだし、1919年秋にストラヴィンスキーに「ハープを含む大編成管弦楽」への編曲を依頼した(当初ファリャに依頼したが断られたため、ストラヴィンスキーに頼んだ)。ストラヴィンスキーはそれまでペルゴレージについて無知だったために躊躇したが、楽譜を見て気に入り、編曲の仕事を引き受けた。 『プルチネルラ』の素材となった楽曲はかつて全てがペルゴレージ作と考えられていたが、その後の音楽研究により、他の作曲家(具体的にはドメニコ・ガロ、ウニコ・ヴィルヘルム・ファン・ヴァッセナール、カルロ・イニャツィオ・モンツァ(英語版)、フォルトゥナート・ケッレリ、そして作曲当時未だ没後10年も経っていなかったアレッサンドロ・パリゾッティ)によるものも含まれていることが判明している。 ストラヴィンスキーはこれらの原曲を素材としながらも、リズムや和声は近代的なものを取り入れた独自のスタイルに作り替え、ディアギレフの意向は無視して、ハープ・打楽器はおろか、クラリネットさえ含まない合奏協奏曲風の小編成の作品とした。ストラヴィンスキーの「作曲」は、1920年4月にかけて、スイスのモルジュで行われた。ディアギレフは完成した作品が要望通りでなかったために驚愕したがこれを了承し、大編成管弦楽を前提にしていたマシーンの振り付けは音楽に合わせたコンパクトなものに作りかえられた。 一方、『パラード』、『三角帽子』に引き続き舞台美術と衣裳を担当したパブロ・ピカソは、デザインをめぐってディアギレフと対立しながらも、月明かりに照らされるナポリの街並みと海をキュビスム風に表現した美しいセットと、コンメディア・デッラルテの伝統的を活かした衣裳を作り上げた。
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