制作の開始
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当時ヨーロッパ音楽界における最大の名士の1人であったプッチーニは、欧州各都市を訪問し多忙であり、台本制作チームとの交渉は遅々として進まなかったが、それでも1920年の8月頃までには、全体を3幕構成にすること等のアウトラインは固まっていた。またこの頃、冷たい女主人公トゥーランドット姫と対照的な、優しさを体現した「もう1人の、小さい女性」の役柄を創出することも決定した。これは原作に登場しない女召使・リューとして具現化する。一方で、ゴッツィの原作に登場する伝統的な仮面付の4人のコミカルなキャラクター(これは中国風というより、コメディア・デラルテの伝統に則った役柄)に関してはプッチーニは導入の是非を悩んだ末、宮廷の3大臣、ピン、パン、ポンとして残すことになった。プッチーニはまたこの頃、中国から帰国した外交官、ファッシーニ・カモッシ男爵の土産物に中国のメロディーを奏でるオルゴールがあることを知り、同男爵から借り受けてメロディー採集を行ったりもしている。
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制作の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:25 UTC 版)
同年にプッチーニはミラノに戻ると、『トスカ』の台本の執筆を手がけたイルリカとジャコーザに頼んで、最初から3人の協力で蝶々さんのオペラの制作が開始された。翌年には難航していた作曲権の問題も片付き、本格的に制作に着手した。プッチーニは日本音楽の楽譜を調べたり、レコードを聞いたり、日本の風俗習慣や宗教的儀式に関する資料を集め、日本の雰囲気をもつ異色作の完成を目指して熱心に制作に励んだ。当時のイタリア駐在特命全権公使であった大山綱介の妻・久子に再三会って日本の事情を聞き、民謡など日本の音楽を集めた。またプッチーニはヨーロッパの劇評で絶賛されていた日本人女優川上貞奴に接することを熱望した。1902年4月ミラノで観劇が叶い、貞奴の芝居に感銘を受けた。オペラ歌手の小嶋健二がイタリアの指揮者セルジオ・ファイローニ(Sergio Failoni)の未亡人から聞いた話では、ファイローニがプッチーニに蝶々夫人をなぜ作ったか聞いたところ「日本女性を愛してみればよくわかる」と答えたという。
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