映画政策措置(概要)
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「ナチスの映画政策」の記事における「映画政策措置(概要)」の解説
1933年から1945年にかけて、ドイツ国における映画の政治利用と画一化にあたって最も重要な措置は、映画を帝国国民啓蒙宣伝省の所管としたことである。これにより1933年3月から宣伝省は唯一の所管官庁となった。同省は他省からの介入に配慮する必要はなくなり、そのため極めて効率よく映画政策を実施することが可能となった。 ナチ党の映画政策の大部分は、映画業界の再編を目指したものであった。国家の介入によって業界は次第に、しかし完全に再編され、強力なプロパガンダ産業へと拡充されていった。最初のステップは、映画信用銀行有限会社(ドイツ語版)の設立であり、政治的に忠実な制作会社に資金援助が与えられた。多数の小企業が乱立していた映画業界は再編と統合によって効率的になっただけでなく、管理・統制が容易になり、制作部門と配給部門の集約が急速に進んでいった。1930年から1932年の間、100社以上の制作会社がヴァイマル共和国で事業を展開していたが、1942年には1社のみ、すなわち国有のUFIコンツェルン(Ufa-Film GmbH)となっていた。ナチの政策は、強制的な統合に加えて、当初からドイツ映画産業に欧州市場を確保させることでアメリカ映画との死活的な競争から解放するという課題を念頭に置いていた。この目標のため、1935年に国際映画院(ドイツ語版)が設立された。1939年に始まったドイツの侵略戦争は、ドイツの映画業界にとって、経済的に言えば、幸運な出来事であった。占領された国々はドイツ映画の市場となって利益をもたらし、接収された制作設備はドイツ映画産業に併呑されたからである。この保護主義的政策により「健全に」統合された映画産業は、ナチ体制に無条件の忠誠心と感謝を寄せるようになる。 映画業界の助成のほかに、直接の画一化措置も取られた。こうして帝国映画文芸部員(ドイツ語版)制度が導入され、制作の開始前にすべての台本、原稿、作品草案を検査することとなった。すでにヴァイマル共和国時代からあった映画検閲は引き続き行われ、さらに厳しくなった。1934年から、国家指導部に「ナチ的、宗教的、道徳的または芸術的な感性を傷つける、粗暴または不道徳な印象を与える、ドイツの外観またはドイツと外国との関係を危うくする」ように思われる作品は禁止されることとなった。『クウレ・ワムペ(ドイツ語版)』(1932年)やロベルト・ジーオトマクの『予審(ドイツ語版)』(1931年)といった社会批判的な作品、そして映画史上重要なフリッツ・ラングやゲオルク・ヴィルヘルム・パープストの作品が上映されることはなかった。事前検閲は非常に効果的で、政治的に好ましくない新作が完成までこぎつけることは、事実上不可能であった。しかし、撮影時に問題なしとされていた映画の一部は、その間に政治情勢が変化したためもはや時局にそぐわないとして、完成後に禁止された。例えば1935年に完成した『フリース人の苦悩(ドイツ語版)』には村民に赤軍兵士が皆殺しにされるシーンが含まれていたが、独ソ不可侵条約が締結されるとドイツとソ連の一時的な友好関係を害するものとみなされて、上映禁止となった。 映画評論は最終的に禁止されたが、新たに映画評価(ドイツ語版)が導入され、また国民映画賞(Deutscher Staatspreis, 「ドイツ国家賞」)を授与することで、政治的に望ましい映画の制作を後押しすることとされた。映画業界の従事者は、ナチ職業団体(Reichsfachschaft Film, 仮訳「帝国映画人会」)に加入させられ、また政治的に忠実な映画アーティストのために国立養成機関(ドイツ映画アカデミー・バーベルスベルク(ドイツ語版))が設立されたが、これらは人事面での画一化を目的としたものである。ドイツ映画産業の全従事者は、同団体の会員であることが必須であった。体制に批判的な者やユダヤ人といった望ましくない人物は加入を拒否されたが、これは就業禁止と同義であった。
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