日本メーカーの参戦とは? わかりやすく解説

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日本メーカーの参戦 (1959年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 08:16 UTC 版)

ロードレース世界選手権の沿革」の記事における「日本メーカーの参戦 (1959年)」の解説

1959年 - ホンダがマン島TTレースに参戦 ホンダ日本メーカーとして初めロードレース世界選手権出場するエントリーイギリスGPマン島TT)の125ccクラスで、RC141が2台、RC142が3台の合計5台。クリプス・コースを走り、RC141は1台が完走し、1台はリタイアする。RC142は3台完走しチーム優勝する谷口尚巳が6位、田中楨助が8位、鈴木淳三が11位になる。 1960年 - ホンダが全11戦中6戦に参戦、スズキがマン島TTレースに参戦 ホンダ今シーズンから全11戦中6戦に参戦する。RC161で250ccクラスに、RC143で125ccクラス参戦する参戦した6戦は次の6GP -- イギリスGP/マン島TT(マウンテン・コース)、オランダGP/ダッチTTアッセン)、ベルギーGPスパ・フランコルシャン)、西ドイツGPソリチュード)、アルスターGPアルスターダンドロッド)、イタリアGPモンツァ)。昨シーズン1959年)のイギリスGP/マン島TTでは、250ccクラス125ccクラスレースはクリプス・コースを使用したが、今シーズン使用するコースがマウンテン・コースに変更されたので、ホンダコース攻略のために昨シーズン経験活かすことができなかった。しかし、ホンダライダー250ccクラスで3人が、125ccクラスで5人がトップ10入ったまた、今シーズンランキングは、250ccクラスジム・レッドマンが4位、トム・フィリスが6位、高橋国光が7位となり、田中健二郎西ドイツGPにおいて日本人初め表彰台上がる3位)。125ccクラスではジム・レッドマンランキング7位なる。 スズキイギリスGP/マン島TTのみにRT60125ccクラス参戦するスズキマン島TT参戦する逸話として、当時スズキ社長鈴木俊三本田宗一郎次のように言われたことが切っ掛けになった伝えられている。「スズキさんTT出たらどうかね?」(本田宗一郎その頃スズキ舗装され自前テストコース持っていなかったので、ホンダテストコース荒川テストコース)を借用してマシン開発あたったホンダテストコースを貸すだけでなく、宿泊施設昼食の手配をしたり、光電管スピード測定器ホンダ工場内の溶接器まで貸すなどして、スズキ便宜はかったまた、マン島までの輸送税関手続きタイヤなどの部品善し悪しなどの助言行ったこの後スズキ自前テストコース建設することになる。スズキイギリスGP/マン島TT125ccクラスで、15位、16位、18位になる。全車完走し、ブロンズレプリカ賞を獲得するその後スズキ2ストロークエンジン250ccクラス出場することを表明する酒井文人バイク雑誌モーターサイクリスト主宰者)は「日本ライダー育てる何かをしてみたい」という考えから、引退しているジェフ・デューク日本招いたデュークはノートン・マンクス(500cc単気筒)で華麗な走り日本人披露するまた、ホンダヤマハスズキなどのメーカーを訪ずれて技術者ライダーたちと話したり、アマチュア・ライダーの集りであるクラブマンとも会合持ちライディング技術など教授し日本ロードレース幕開け期のライダーたちに大きな影響与えた1961年 - MVアグスタがワークス活動を停止、ホンダとスズキが全戦参戦、ヤマハが第3戦から参戦、デグナーが亡命 1961年1月15日MVアグスタ今シーズンからワークス活動停止する発表したワークス活動停止理由については様々な憶測なされていたが、その中にはホンダ猛襲から逃げた」というものまであったMVアグスタワークス活動停止理由として1シーズン開催されるレース回数多さ挙げている。1シーズン6戦に戻すように主張していたにもかかわらずFIM今シーズンから10戦に増やしたことを理由としている。当時道路整備状況下でのトラックによるヨーロッパ各地への長距離移動を伴う転戦大変さ背景にあると推察される。MVアグスタは、ワークス活動停止するがプライベートライダーへの支援続けることも表明している。また次のような言葉残している。「私たちは2644回の優勝36回のライダー選手権獲得19回のメーカー選手権獲得為し遂げた。この記録打ち破るようなメーカー現れたなら、その時即座にワークス活動再開する」(MVアグスタ日本メーカーの動向は、今シーズンからホンダスズキ250ccクラス125ccクラスの全戦11戦に参戦する。そして、ヤマハ1961年250ccクラス125ccクラス参戦することを発表し第3フランスGPクレルモン=フェラン)からロードレース世界選手権WGP)の一員になる。今シーズン結果は、250ccクラスでは、ホンダRC162を駆るマイク・ヘイルウッドが第4戦イギリスGP/マン島TTホンダ250ccに初勝利をもたらし世界チャンピオンになる。また、高橋国光が第2戦西ドイツGPホッケンハイム)で優勝しWGP日本人初め優勝するホンダ駆る6人のライダーランキング1位 - 5位、10位を占めヤマハ駆る伊藤史朗が9位になる。125ccクラスでは、ホンダ駆るトム・フィリスが第1戦スペインGPモンジュイック)で優勝しホンダWGP勝利をもたらす以後トムエルンスト・デグナーMZ)と競り合い、2ポイント差で世界チャンピオンになる。ホンダ駆る6人のライダーランキング1位、3位 - 6位、9位になる(6位のマイク・ヘイルウッドEMCでも125ccクラスを走る)。ホンダ今シーズン3種類のマシン投入した。第1戦スペインGPではトム・フィリスは昨シーズン型(1960年型)のRC143を駆り優勝、第4戦イギリスGP/マン島TTではマイク・ヘイルウッド今シーズン型のRC144を駆り優勝。しかし、RC144はエンジントラブル多発したため、シーズン後半にRC143の後継機である2RC143を投入する。2RC143はRC144よりも活躍したホンダが第4戦イギリスGP/マン島TT250ccクラス125ccクラスの両クラス優勝したことについて、本田宗一郎次のように語っている。「私がオートバイ始めてから持ちつづけた《夢》、それは日本人独創によってつくったマシンレースに勝つことであった。(省略)。この勝利本田技研勝利でなく、日本皆さんとともに喜んでいただくとともに希望与えたものだと深く感謝している」(本田宗一郎今シーズンは、ホンダ駆るライダー250ccクラス125ccクラス世界チャンピオンになり、ホンダ初め世界タイトルもたらすマン島TTでの2クラス制覇はヨーロッパバイク雑誌でも大きく取り上げられホンダエンジンは、「まるで時計のようだ」「独創的な設計性能極めて優秀」「ホンダはついに世界最高の製品にその名を連ねた」と評された。 また、第10戦スウェーデンGP終了後衝撃的な事件起きる。エルンスト・デグナー東ドイツ)が西ドイツ亡命したのである当時東西冷戦真っ只中であり、この事件WGP関係者驚かせた。そして、亡命明らかになった1ヶ月後には東京ホテル滞在しており、翌シーズンスズキのワークスライダーとしてWGPを走ることになる。 1962年 - 50ccクラス開始、ホンダが3クラスで選手権獲得、ヤマハ撤退 350ccクラスでは、ジム・レッドマンが285ccエンジン搭載するホンダRC170を駆って世界チャンピオンとなり、ホンダ初めて350ccクラス世界タイトルもたらしたランキング2位もRC170を駆るトミー・ロブが獲得する250ccクラスでは、ジム・レッドマンホンダ駆り世界チャンピオンになる。ランキング1位、2位、4位 - 9位がホンダ駆るライダーであった。9位のアルベルト・パガニは今シーズンホンダのほかにアエルマッキ走らせた125ccクラスでは、ルイジ・タベリホンダ駆り世界チャンピオンになる。ランキング1位 - 4位、6位がホンダ駆るライダーであったスズキは、ヒュー・アンダーソンランキング7位になる。今シーズンから50ccクラスレース開始50ccクラスは既にヨーロッパ選手権として行われていた。50ccクラスにはホンダスズキ参戦しエルンスト・デグナースズキRM62駆って世界チャンピオンになり、スズキ初め世界タイトルもたらす今シーズンホンダ駆るライダーが3クラス(350cc、250cc125cc)で世界チャンピオンになり、またホンダメーカー選手権獲得するヤマハ発動機今シーズン参戦しなかった。昨シーズン1961年)の参戦で、MZとの性能の差を緊々感じており、そのためにはマシン開発により力を入れ必要があるのだが、ヤマハ発動機大型スクーターSC1とモペットMF1の販売不振影響して会社経営苦境に立たされてそれどころではなく、そのため今シーズン参戦取り止めることにした。ただロードレース世界選手権WGP)での戦績販売大きく影響することは心得ていたので、WGPマシン開発今シーズン続行した1963年 - 日本GP開催、ヤマハがワークス活動を再開 今シーズンは、日本初めロードレース世界選手権日本GP昨年1962年完成した鈴鹿サーキット開催された。日本GPシーズン最終戦組み込まれ以後1967年富士スピードウェイ)まで開催されるが、500ccクラス一度開催されなかった。また、ヤマハ発動機WGP活動再開し250ccクラス125ccクラス参戦する今シーズンは、ヒュー・アンダーソンスズキRT63駆って125ccクラス世界チャンピオンになり、スズキ初め125ccクラス世界タイトルもたらすまた、伊藤光夫スズキ)が第4戦イギリスGP/マン島TT50ccクラス優勝し日本人初のマン島TT優勝ライダーになる。 1964年 - ヤマハ 250ccクラス選手権獲得、スズキ 50ccクラス3年連続選手権獲得 250ccクラスで、フィル・リードヤマハ駆って世界チャンピオンになり、ヤマハ初の世界タイトルもたらすまた、マイク・ダフとトミー・ロブもヤマハ駆ってそれぞれランキング4位と9位になり、ヤマハ初のメーカー選手権獲得する50ccクラスでは、3年連続スズキ駆るライダー世界チャンピオンに、スズキ3年連続でメーカーチャンピオンになる。 1965年 - ヤマハ 250ccクラス2年連続選手権獲得、スズキ 125ccクラス3年連続メーカー選手権獲得、カワサキが日本GPで125ccマシンをテスト 250ccクラスでは、フィル・リードヤマハ)が世界チャンピオンに、マイク・ダフヤマハ)がランキング2位になり、またヤマハ2年連続でメーカーチャンピオンになる。今シーズンヤマハ3種類のマシン投入する改良型のRD56ではホンダ猛追振り切れない判断したヤマハは、イタリアGPモンツァ)で空冷V型4気筒エンジン搭載のRD05を、日本GP鈴鹿)で水冷V型4気筒エンジン搭載のRD05をデビューさせるが、V4マシン操縦性良くなかった125ccクラスでは、スズキ3年連続してメーカー選手権獲得したまた、カワサキ日本GP鈴鹿サーキット)で、空冷2気筒125ccマシンテスト行った1966年 - ホンダ 500ccクラスメーカー選手権シップ獲得ホンダ日本GP富士スピードウェイ)をボイコット 500ccクラスにはホンダ(RC181)がマイク・ヘイルウッドジム・レッドマン2人体制参戦する。500ccクラスでは、ジャコモ・アゴスチーニMVアグスタ500-TRIPLE、優勝3回)が世界チャンピオンに、マイク・ヘイルウッドホンダ優勝3回)がランキング2位に、ジム・レッドマンホンダ優勝2回)がランキング5位になる。また、ホンダはメーカーチャンピオンになる。 選手権ポイント制1950年から1968年までの期間に採用していたポイント制度では、各レースの上位6人のライダーポイント与えられ、1位 8ポイント2位 6ポイント3位 4ポイント、4位 3ポイント、5位 2ポイント、6位 1ポイント、である。 500ccクラス選手権の有効ポイント1958年から1968年までの期間に採用していたポイント制度では、1966年場合、500ccクラスは9戦あり、世界チャンピオンを争う上で有効ポイントとして加算されるのは9戦のうち5戦で獲得したポイントである。詳細は「ロードレース世界選手権のレギュレーション#1958年 - 1968年」を参照 500ccクラスライダー選手権では、ジャコモ・アゴスチーニMVアグスタ)が獲得したポイントは第1戦から第9戦までの9戦で「6 - 6 - 8 - 0 - 6 - 8 - 6 - 6 - 8」(総計54ポイント)となり、有効ポイント36マイク・ヘイルウッドホンダ)は「0 - 0 - 0 - 0 - 8 - 6 - 8 - 8 - 0」(総計30ポイント)となり、有効ポイント30ジム・レッドマンホンダ)は「8 - 8 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0」(合計16ポイント)となり、有効ポイント16。よって、世界チャンピオンはアゴスチーニになる。 メーカーチャンピオンシップは、レースにおいて同一メーカーバイク乗る1人あるいは複数ライダーのうち最も高いポイント獲得したライダーポイントメーカー獲得したポイントとして加算し選手権競う今シーズンの500ccクラス場合MVアグスタ駆るライダージャコモ・アゴスチーニ1人だったので、アゴスチーニの有効ポイントそのままMVアグスタの有効ポイントとなり36である。一方ホンダマイク・ヘイルウッドジム・レッドマン2人ライダー参戦していたので、ホンダ獲得ポイントは「8 - 8 - 0 - 0 - 8 - 6 - 8 - 8 - 0」(第1戦と第2戦はレッドマンが、第5戦と第7戦、第8戦はヘイルウッドが獲得したポイント)となり、ホンダの有効ポイント40。よって、メーカーチャンピオンはホンダになる。これによってホンダ今までロードレース世界選手権活動において、4クラス(500cc、350cc、250cc125cc)のメーカー選手権獲得したホンダ今シーズン日本GP富士スピードウェイ)をボイコットホンダが富士スピードウェイ開催され日本GPボイコットした理由は、富士スピードウェイ30バンクが危険過ぎる、というものであるホンダ今シーズン日本GP前に行われたイタリアGPモンツァ)で全クラス(500cc、350cc、250cc125cc50cc)のメーカー選手権獲得していた。ホンダボイコット問題になったサーキット危険性理由にするならば、モンツァバンク公道サーキットもあるヨーロッパサーキット危険性問題はないのか、ということもあり、ホンダ非難浴びることになった。しかし、富士スピードウェイ30バンクヨーロッパライダーたちからも「怖い」と言われ、また1967年時点では30バンク路面の状態が悪く1967年の日本GP富士スピードウェイ)では、30バンク使わないショートコース行われた鈴鹿サーキット抱え中立性問題鈴鹿サーキット本田技研工業グループ企業であるホンダランドが運営するサーキットである。そのためホンダ以外のメーカー鈴鹿サーキット練習希望してホンダ優先されることがあり、また鈴鹿サーキット使用料高額なこともあって、中立性重視した日本モーターサイクルスポーツ協会MFJ)は富士スピードウェイ日本GP開催することにした。 1967年 - 1960年代最後の日本GP開催、ホンダがワークス活動を一部停止 1967年富士スピードウェイ開催され日本GPが、1960年代日本開催され最後ロードレース世界選手権WGP)になる。また、ホンダ今シーズンから125ccクラス50ccクラスでのワークス活動停止し、500ccクラスと350ccクラス250ccクラスへ参戦になる。500ccクラスでは、ジャコモ・アゴスチーニMVアグスタ)が世界チャンピオンになり、マイク・ヘイルウッドホンダ)がランキング2位になる。今シーズンの500ccクラス優勝したのはこの2人だけである。350ccクラスでは、マイク・ヘイルウッドホンダ)が世界チャンピオンに、ラルフ・ブライアンズホンダ)がランキング3位になる。250ccクラスでは、マイク・ヘイルウッドホンダ)が世界チャンピオンになり、ラルフ・ブライアンズホンダ)がランキング4位、フィル・リードヤマハ)が2位ビル・アイビーヤマハ)が3位になる。メーカー選手権ホンダ獲得するホンダ抜けた125ccクラスでは、ビル・アイビーヤマハ)が世界チャンピオンに、フィル・リードヤマハ)がランキング2位になり、またヤマハ初め125ccクラスのメーカーチャンピオンになる。50ccクラスでは、ハンス=ゲオルグ・アンシャイント(スズキ)が世界チャンピオンに、片山義美スズキ)がランキング2位、スチュアート・グラハム(スズキ)が3位になり、スズキ圧勝する選手権ポイント制1950年から1968年までの期間に採用していたポイント制度では、各レースの上位6人のライダーポイント与えられ、1位 8ポイント2位 6ポイント3位 4ポイント、4位 3ポイント、5位 2ポイント、6位 1ポイント、である。 500ccクラス選手権の有効ポイント1958年から1968年までの期間に採用していたポイント制度では有効ポイント制採用されており、1967年の500ccクラス場合レース10戦あり、世界チャンピオンを争う上で有効ポイントとして加算されるのは10戦のうち6戦で獲得したポイントである。詳細は「ロードレース世界選手権のレギュレーション#1958年 - 1968年」を参照 500ccクラスライダー選手権では、ジャコモ・アゴスチーニMVアグスタ)が獲得したポイントは第1戦から第10戦までの10戦で「8 - 0 - 6 - 8 - 8 - 6 - 8 - 0 - 8 - 6」(総計58ポイント)となり、有効ポイント46優勝回数は5回、2位入賞3回マイク・ヘイルウッドホンダ)が獲得したポイントは「0 - 8 - 8 - 6 - 0 - 8 - 0 - 8 - 6 - 8」(総計52ポイント)となり、有効ポイント46優勝回数は5回、2位入賞は2回。アゴスチーニとヘイルウッドの有効ポイント優勝回数同じなので、2位入賞回数が多いアゴスチーニが世界チャンピオンになる。 250ccクラス選手権の有効ポイント1967年250ccクラス場合レース13戦あり、世界チャンピオンを争う上で有効ポイントとして加算されるのは13戦のうち7戦で獲得したポイントである。詳細は「ロードレース世界選手権のレギュレーション#1958年 - 1968年」を参照 250ccクラスライダー選手権では、マイク・ヘイルウッドホンダ)が獲得したポイントは第1戦から第13戦までの13戦で「0 - 0 - 4 - 8 - 8 - 6 - 0 - 4 - 8 - 8 - 0 - 8 - 0」(総計54ポイント)となり、有効ポイント50優勝回数は5回。フィル・リードヤマハ)が獲得したポイントは「8 - 6 - 6 - 6 - 0 - 0 - 8 - 8 - 0 - 0 - 8 - 6 - 0」(総計56ポイント)となり、有効ポイント50優勝回数は4回。ヘイルウッドとリードの有効ポイントが同ポイントのため、世界チャンピオン決定10月末に開催されるFIM総会まで持ち越されその結果優勝回数が多いヘイルウッドが世界チャンピオンになる。メーカー選手権影響与える他のライダー獲得したポイント次のとおり -- ビル・アイビーヤマハ)が「0 - 0 - 8 - 0 - 6 - 8 - 6 - 6 - 6 - 4 - 6 - 0 - 1」(総計51ポイント)で有効ポイント46となり、ランキング3位ラルフ・ブライアンズホンダ)が「6 - 8 - 3 - 4 - 4 - 4 - 4 - 3 - 0 - 6 - 4 - 4 - 8」(総計58ポイント)で有効ポイント40となり、4位。本橋明泰ヤマハ)が「0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 6」(総計6ポイント)で有効ポイントは6となり、9位。 メーカーチャンピオンシップは、レースにおいて同一メーカーバイク乗る1人あるいは複数ライダーのうち最も高いポイント獲得したライダーポイントメーカー獲得したポイントとして加算し選手権競う今シーズン250ccクラス場合は、ホンダ駆るライダーマイク・ヘイルウッドラルフ・ブライアンズ2人ヤマハ駆るライダーフィル・リードビル・アイビー本橋明泰の3人。ホンダ獲得ポイントは「6 - 8 - 4 - 8 - 8 - 6 - 4 - 4 - 8 - 8 - 4 - 8 - 8」(第2戦と第13戦がブライアンズ、第4戦と第5戦、第9戦第10戦第12戦がヘイルウッド)となり、ホンダの有効ポイント56ヤマハ獲得ポイントは「8 - 6 - 8 - 6 - 8 - 8 - 8 - 8 - 6 - 4 - 8 - 6 - 6」(第1戦と第6戦、第7戦、第10戦リード第3戦と第6戦がアイビー第13戦本橋)となり、ヤマハの有効ポイント54。よって、メーカーチャンピオンはホンダになる。 黄禍論出現1961年にはヨーロッパ人々からも称賛されホンダであるが、日本の3メーカーホンダスズキヤマハ)のマシン常勝するようになる状況変わりヨーロッパではこの状況を「黄禍」と報じるメディアまで現れるWGPからF1に転じたイギリス人ジョン・サーティース1967年イタリアGPホンダ/ローライギリス)のマシン駆って優勝したときには日本マシン勝ったと言われヨーロッパ人々快く思わなかった。 1968年 - ホンダとスズキがワークス活動を停止 ホンダスズキ今シーズンからワークス活動停止した250ccクラスではヤマハライダー同士接戦になりフィル・リード世界チャンピオンになる。 選手権ポイント制1950年から1968年までの期間に採用していたポイント制度では、各レースの上位6人のライダーポイント与えられ、1位 8ポイント2位 6ポイント3位 4ポイント、4位 3ポイント、5位 2ポイント、6位 1ポイント、である。 250ccクラス選手権の有効ポイント1968年250ccクラス場合レース10戦あり、世界チャンピオンを争う上で有効ポイントとして加算されるのは10戦のうち6戦で獲得したポイントである。詳細は「ロードレース世界選手権のレギュレーション#1958年 - 1968年」を参照 250ccクラスライダー選手権では、フィル・リードヤマハ)が獲得したポイントは第1戦から第10戦までの10戦で「0 - 8 - 0 - 6 - 8 - 6 - 8 - 8 - 0 - 8」(総計ポイント52)となり、有効ポイント46優勝回数は5回。ビル・アイビーヤマハ)が獲得したポイントは「8 - 0 - 8 - 8 - 0 - 8 - 6 - 0 - 8 - 6」(総計ポイント52)となり、有効ポイント46優勝回数は5回。二人ともポイント優勝回数同じだったため、ベスト・フォー・レースの合計タイム速い方をチャンピオンとすることになり、リードアイビーよりも2分053 速く、リード世界チャンピオンになる。

※この「日本メーカーの参戦 (1959年)」の解説は、「ロードレース世界選手権の沿革」の解説の一部です。
「日本メーカーの参戦 (1959年)」を含む「ロードレース世界選手権の沿革」の記事については、「ロードレース世界選手権の沿革」の概要を参照ください。

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