日本メーカーの参戦 (1959年)
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「ロードレース世界選手権の沿革」の記事における「日本メーカーの参戦 (1959年)」の解説
1959年 - ホンダがマン島TTレースに参戦 ホンダが日本メーカーとして初めてロードレース世界選手権に出場する。エントリーはイギリスGP(マン島TT)の125ccクラスで、RC141が2台、RC142が3台の合計5台。クリプス・コースを走り、RC141は1台が完走し、1台はリタイアする。RC142は3台完走してチーム優勝する。谷口尚巳が6位、田中楨助が8位、鈴木淳三が11位になる。 1960年 - ホンダが全11戦中6戦に参戦、スズキがマン島TTレースに参戦 ホンダが今シーズンから全11戦中6戦に参戦する。RC161で250ccクラスに、RC143で125ccクラスに参戦する。参戦した6戦は次の6GP -- イギリスGP/マン島TT(マウンテン・コース)、オランダGP/ダッチTT(アッセン)、ベルギーGP(スパ・フランコルシャン)、西ドイツGP(ソリチュード)、アルスターGP(アルスター、ダンドロッド)、イタリアGP(モンツァ)。昨シーズン(1959年)のイギリスGP/マン島TTでは、250ccクラスと125ccクラスのレースはクリプス・コースを使用したが、今シーズンは使用するコースがマウンテン・コースに変更されたので、ホンダはコース攻略のために昨シーズンの経験を活かすことができなかった。しかし、ホンダのライダーは250ccクラスで3人が、125ccクラスで5人がトップ10に入った。また、今シーズンのランキングは、250ccクラスでジム・レッドマンが4位、トム・フィリスが6位、高橋国光が7位となり、田中健二郎は西ドイツGPにおいて日本人で初めて表彰台に上がる(3位)。125ccクラスではジム・レッドマンがランキング7位なる。 スズキはイギリスGP/マン島TTのみにRT60で125ccクラスに参戦する。スズキがマン島TTに参戦する逸話として、当時のスズキの社長鈴木俊三が本田宗一郎に次のように言われたことが切っ掛けになったと伝えられている。「スズキさんもTTに出たらどうかね?」(本田宗一郎) その頃のスズキは舗装された自前のテストコースを持っていなかったので、ホンダのテストコース(荒川テストコース)を借用してマシンの開発にあたった。ホンダはテストコースを貸すだけでなく、宿泊施設や昼食の手配をしたり、光電管スピード測定器やホンダ工場内の溶接器まで貸すなどして、スズキに便宜をはかった。また、マン島までの輸送や税関手続き、タイヤなどの部品の善し悪しなどの助言も行った。この後、スズキは自前のテストコースを建設することになる。スズキはイギリスGP/マン島TTの125ccクラスで、15位、16位、18位になる。全車完走し、ブロンズレプリカ賞を獲得する。その後、スズキは2ストロークエンジンで250ccクラスに出場することを表明する。 酒井文人(バイク雑誌『モーターサイクリスト』主宰者)は「日本のライダーを育てる何かをしてみたい」という考えから、引退しているジェフ・デュークを日本に招いた。デュークはノートン・マンクス(500cc単気筒)で華麗な走りを日本人に披露する。また、ホンダやヤマハ、スズキなどのメーカーを訪ずれて技術者やライダーたちと話したり、アマチュア・ライダーの集りであるクラブマンとも会合を持ち、ライディング技術など教授し、日本のロードレース幕開け期のライダーたちに大きな影響を与えた。 1961年 - MVアグスタがワークス活動を停止、ホンダとスズキが全戦参戦、ヤマハが第3戦から参戦、デグナーが亡命 1961年1月15日、MVアグスタが今シーズンからワークス活動を停止すると発表した。ワークス活動停止理由については様々な憶測がなされていたが、その中には「ホンダの猛襲から逃げた」というものまであった。MVアグスタはワークス活動停止の理由として1シーズンに開催されるレースの回数の多さを挙げている。1シーズン6戦に戻すように主張していたにもかかわらず、FIMが今シーズンから10戦に増やしたことを理由としている。当時の道路整備状況下でのトラックによるヨーロッパ各地への長距離移動を伴う転戦の大変さが背景にあると推察される。MVアグスタは、ワークス活動は停止するがプライベートライダーへの支援は続けることも表明している。また次のような言葉も残している。「私たちは2644回の優勝と36回のライダー選手権獲得、19回のメーカー選手権獲得を為し遂げた。この記録を打ち破るようなメーカーが現れたなら、その時は即座にワークス活動を再開する」(MVアグスタ) 日本メーカーの動向は、今シーズンからホンダとスズキが250ccクラスと125ccクラスの全戦11戦に参戦する。そして、ヤマハも1961年に250ccクラスと125ccクラスに参戦することを発表し、第3戦フランスGP(クレルモン=フェラン)からロードレース世界選手権(WGP)の一員になる。今シーズンの結果は、250ccクラスでは、ホンダRC162を駆るマイク・ヘイルウッドが第4戦イギリスGP/マン島TTでホンダの250ccに初勝利をもたらし、世界チャンピオンになる。また、高橋国光が第2戦西ドイツGP(ホッケンハイム)で優勝し、WGPで日本人が初めて優勝する。ホンダを駆る6人のライダーがランキング1位 - 5位、10位を占め、ヤマハを駆る伊藤史朗が9位になる。125ccクラスでは、ホンダを駆るトム・フィリスが第1戦スペインGP(モンジュイック)で優勝し、ホンダにWGP初勝利をもたらす。以後、トムはエルンスト・デグナー(MZ)と競り合い、2ポイント差で世界チャンピオンになる。ホンダを駆る6人のライダーがランキング1位、3位 - 6位、9位になる(6位のマイク・ヘイルウッドはEMCでも125ccクラスを走る)。ホンダは今シーズン、3種類のマシンを投入した。第1戦スペインGPではトム・フィリスは昨シーズン型(1960年型)のRC143を駆り優勝、第4戦イギリスGP/マン島TTではマイク・ヘイルウッドが今シーズン型のRC144を駆り優勝。しかし、RC144はエンジントラブルが多発したため、シーズン後半にRC143の後継機である2RC143を投入する。2RC143はRC144よりも活躍した。ホンダが第4戦イギリスGP/マン島TTの250ccクラスと125ccクラスの両クラスで優勝したことについて、本田宗一郎は次のように語っている。「私がオートバイを始めてから持ちつづけた《夢》、それは日本人の独創によってつくったマシンでレースに勝つことであった。(省略)。この勝利は本田技研の勝利でなく、日本の皆さんとともに喜んでいただくとともに、希望を与えたものだと深く感謝している」(本田宗一郎) 今シーズンは、ホンダを駆るライダーが250ccクラスと125ccクラスで世界チャンピオンになり、ホンダに初めて世界タイトルをもたらす。マン島TTでの2クラス制覇はヨーロッパのバイク雑誌でも大きく取り上げられ、ホンダのエンジンは、「まるで時計のようだ」「独創的な設計、性能は極めて優秀」「ホンダはついに世界最高の製品にその名を連ねた」と評された。 また、第10戦スウェーデンGP終了後に衝撃的な事件が起きる。エルンスト・デグナー(東ドイツ)が西ドイツに亡命したのである。当時は東西冷戦の真っ只中であり、この事件はWGP関係者を驚かせた。そして、亡命が明らかになった1ヶ月後には東京のホテルに滞在しており、翌シーズンはスズキのワークスライダーとしてWGPを走ることになる。 1962年 - 50ccクラス開始、ホンダが3クラスで選手権獲得、ヤマハ撤退 350ccクラスでは、ジム・レッドマンが285ccエンジンを搭載するホンダRC170を駆って世界チャンピオンとなり、ホンダに初めて350ccクラスの世界タイトルをもたらした。ランキング2位もRC170を駆るトミー・ロブが獲得する。250ccクラスでは、ジム・レッドマンがホンダを駆り、世界チャンピオンになる。ランキング1位、2位、4位 - 9位がホンダを駆るライダーであった。9位のアルベルト・パガニは今シーズンはホンダのほかにアエルマッキも走らせた。125ccクラスでは、ルイジ・タベリがホンダを駆り、世界チャンピオンになる。ランキング1位 - 4位、6位がホンダを駆るライダーであった。スズキは、ヒュー・アンダーソンがランキング7位になる。今シーズンから50ccクラスのレースが開始。50ccクラスは既にヨーロッパ選手権として行われていた。50ccクラスにはホンダとスズキが参戦し、エルンスト・デグナーがスズキRM62を駆って世界チャンピオンになり、スズキに初めて世界タイトルをもたらす。今シーズンはホンダを駆るライダーが3クラス(350cc、250cc、125cc)で世界チャンピオンになり、またホンダはメーカー選手権を獲得する。 ヤマハ発動機は今シーズンは参戦しなかった。昨シーズン(1961年)の参戦で、MZとの性能の差を緊々と感じており、そのためにはマシンの開発により力を入れる必要があるのだが、ヤマハ発動機は大型スクーターSC1とモペットMF1の販売不振が影響して会社経営が苦境に立たされてそれどころではなく、そのため今シーズンの参戦を取り止めることにした。ただロードレース世界選手権(WGP)での戦績が販売に大きく影響することは心得ていたので、WGP用マシンの開発は今シーズンも続行した。 1963年 - 日本GP開催、ヤマハがワークス活動を再開 今シーズンは、日本で初めてロードレース世界選手権日本GPが昨年(1962年)完成した鈴鹿サーキットで開催された。日本GPはシーズン最終戦に組み込まれ、以後、1967年(富士スピードウェイ)まで開催されるが、500ccクラスは一度も開催されなかった。また、ヤマハ発動機がWGP活動を再開し、250ccクラスと125ccクラスに参戦する。今シーズンは、ヒュー・アンダーソンがスズキRT63を駆って125ccクラスの世界チャンピオンになり、スズキに初めて125ccクラスの世界タイトルをもたらす。また、伊藤光夫(スズキ)が第4戦イギリスGP/マン島TT50ccクラスで優勝し、日本人初のマン島TT優勝ライダーになる。 1964年 - ヤマハ 250ccクラス選手権獲得、スズキ 50ccクラス3年連続選手権獲得 250ccクラスで、フィル・リードがヤマハを駆って世界チャンピオンになり、ヤマハ初の世界タイトルをもたらす。また、マイク・ダフとトミー・ロブもヤマハを駆って、それぞれランキング4位と9位になり、ヤマハ初のメーカー選手権を獲得する。50ccクラスでは、3年連続でスズキを駆るライダーが世界チャンピオンに、スズキも3年連続でメーカーチャンピオンになる。 1965年 - ヤマハ 250ccクラス2年連続選手権獲得、スズキ 125ccクラス3年連続メーカー選手権獲得、カワサキが日本GPで125ccマシンをテスト 250ccクラスでは、フィル・リード(ヤマハ)が世界チャンピオンに、マイク・ダフ(ヤマハ)がランキング2位になり、またヤマハは2年連続でメーカーチャンピオンになる。今シーズン、ヤマハは3種類のマシンを投入する。改良型のRD56ではホンダの猛追を振り切れないと判断したヤマハは、イタリアGP(モンツァ)で空冷V型4気筒エンジン搭載のRD05を、日本GP(鈴鹿)で水冷V型4気筒エンジン搭載のRD05をデビューさせるが、V4マシンの操縦性は良くなかった。125ccクラスでは、スズキが3年連続してメーカー選手権を獲得した。また、カワサキが日本GP(鈴鹿サーキット)で、空冷2気筒125ccマシンのテストを行った。 1966年 - ホンダ 500ccクラスのメーカー選手権シップ獲得、ホンダが日本GP(富士スピードウェイ)をボイコット 500ccクラスにはホンダ(RC181)がマイク・ヘイルウッドとジム・レッドマンの2人体制で参戦する。500ccクラスでは、ジャコモ・アゴスチーニ(MVアグスタ500-TRIPLE、優勝3回)が世界チャンピオンに、マイク・ヘイルウッド(ホンダ、優勝3回)がランキング2位に、ジム・レッドマン(ホンダ、優勝2回)がランキング5位になる。また、ホンダはメーカーチャンピオンになる。 選手権のポイント制度1950年から1968年までの期間に採用していたポイント制度では、各レースの上位6人のライダーにポイントが与えられ、1位 8ポイント、2位 6ポイント、3位 4ポイント、4位 3ポイント、5位 2ポイント、6位 1ポイント、である。 500ccクラスの選手権の有効ポイント1958年から1968年までの期間に採用していたポイント制度では、1966年の場合、500ccクラスは9戦あり、世界チャンピオンを争う上で有効ポイントとして加算されるのは9戦のうち5戦で獲得したポイントである。詳細は「ロードレース世界選手権のレギュレーション#1958年 - 1968年」を参照 500ccクラスのライダー選手権では、ジャコモ・アゴスチーニ(MVアグスタ)が獲得したポイントは第1戦から第9戦までの9戦で「6 - 6 - 8 - 0 - 6 - 8 - 6 - 6 - 8」(総計54ポイント)となり、有効ポイントは36。マイク・ヘイルウッド(ホンダ)は「0 - 0 - 0 - 0 - 8 - 6 - 8 - 8 - 0」(総計30ポイント)となり、有効ポイントは30。ジム・レッドマン(ホンダ)は「8 - 8 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0」(合計16ポイント)となり、有効ポイントは16。よって、世界チャンピオンはアゴスチーニになる。 メーカーチャンピオンシップは、レースにおいて同一メーカーのバイクに乗る1人あるいは複数のライダーのうち最も高いポイントを獲得したライダーのポイントをメーカーが獲得したポイントとして加算し、選手権を競う。今シーズンの500ccクラスの場合、MVアグスタを駆るライダーはジャコモ・アゴスチーニ1人だったので、アゴスチーニの有効ポイントがそのままMVアグスタの有効ポイントとなり36である。一方、ホンダはマイク・ヘイルウッドとジム・レッドマンの2人のライダーが参戦していたので、ホンダの獲得ポイントは「8 - 8 - 0 - 0 - 8 - 6 - 8 - 8 - 0」(第1戦と第2戦はレッドマンが、第5戦と第7戦、第8戦はヘイルウッドが獲得したポイント)となり、ホンダの有効ポイントは40。よって、メーカーチャンピオンはホンダになる。これによってホンダは今までのロードレース世界選手権の活動において、4クラス(500cc、350cc、250cc、125cc)のメーカー選手権を獲得した。 ホンダが今シーズンの日本GP(富士スピードウェイ)をボイコットホンダが富士スピードウェイで開催された日本GPをボイコットした。理由は、富士スピードウェイの30度バンクが危険過ぎる、というものである。ホンダは今シーズンは日本GPの前に行われたイタリアGP(モンツァ)で全クラス(500cc、350cc、250cc、125cc、50cc)のメーカー選手権を獲得していた。ホンダのボイコットは問題になった。サーキットの危険性を理由にするならば、モンツァのバンクや公道サーキットもあるヨーロッパのサーキットの危険性は問題はないのか、ということもあり、ホンダは非難を浴びることになった。しかし、富士スピードウェイの30度バンクはヨーロッパのライダーたちからも「怖い」と言われ、また1967年の時点では30度バンクの路面の状態が悪く、1967年の日本GP(富士スピードウェイ)では、30度バンクを使わないショートコースで行われた。 鈴鹿サーキットが抱える中立性の問題鈴鹿サーキットは本田技研工業のグループ企業であるホンダランドが運営するサーキットである。そのためホンダ以外のメーカーが鈴鹿サーキットで練習を希望してもホンダが優先されることがあり、また鈴鹿サーキットの使用料が高額なこともあって、中立性を重視した日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)は富士スピードウェイで日本GPを開催することにした。 1967年 - 1960年代最後の日本GP開催、ホンダがワークス活動を一部停止 1967年に富士スピードウェイで開催された日本GPが、1960年代に日本で開催された最後のロードレース世界選手権(WGP)になる。また、ホンダは今シーズンから125ccクラスと50ccクラスでのワークス活動を停止し、500ccクラスと350ccクラス、250ccクラスへの参戦になる。500ccクラスでは、ジャコモ・アゴスチーニ(MVアグスタ)が世界チャンピオンになり、マイク・ヘイルウッド(ホンダ)がランキング2位になる。今シーズンの500ccクラスで優勝したのはこの2人だけである。350ccクラスでは、マイク・ヘイルウッド(ホンダ)が世界チャンピオンに、ラルフ・ブライアンズ(ホンダ)がランキング3位になる。250ccクラスでは、マイク・ヘイルウッド(ホンダ)が世界チャンピオンになり、ラルフ・ブライアンズ(ホンダ)がランキング4位、フィル・リード(ヤマハ)が2位、ビル・アイビー(ヤマハ)が3位になる。メーカー選手権もホンダが獲得する。ホンダが抜けた125ccクラスでは、ビル・アイビー(ヤマハ)が世界チャンピオンに、フィル・リード(ヤマハ)がランキング2位になり、またヤマハは初めて125ccクラスのメーカーチャンピオンになる。50ccクラスでは、ハンス=ゲオルグ・アンシャイント(スズキ)が世界チャンピオンに、片山義美(スズキ)がランキング2位、スチュアート・グラハム(スズキ)が3位になり、スズキが圧勝する。 選手権のポイント制度1950年から1968年までの期間に採用していたポイント制度では、各レースの上位6人のライダーにポイントが与えられ、1位 8ポイント、2位 6ポイント、3位 4ポイント、4位 3ポイント、5位 2ポイント、6位 1ポイント、である。 500ccクラスの選手権の有効ポイント1958年から1968年までの期間に採用していたポイント制度では有効ポイント制が採用されており、1967年の500ccクラスの場合はレースは10戦あり、世界チャンピオンを争う上で有効ポイントとして加算されるのは10戦のうち6戦で獲得したポイントである。詳細は「ロードレース世界選手権のレギュレーション#1958年 - 1968年」を参照 500ccクラスのライダー選手権では、ジャコモ・アゴスチーニ(MVアグスタ)が獲得したポイントは第1戦から第10戦までの10戦で「8 - 0 - 6 - 8 - 8 - 6 - 8 - 0 - 8 - 6」(総計58ポイント)となり、有効ポイントは46、優勝回数は5回、2位入賞は3回。マイク・ヘイルウッド(ホンダ)が獲得したポイントは「0 - 8 - 8 - 6 - 0 - 8 - 0 - 8 - 6 - 8」(総計52ポイント)となり、有効ポイントは46、優勝回数は5回、2位入賞は2回。アゴスチーニとヘイルウッドの有効ポイントと優勝回数が同じなので、2位入賞回数が多いアゴスチーニが世界チャンピオンになる。 250ccクラスの選手権の有効ポイント1967年の250ccクラスの場合はレースは13戦あり、世界チャンピオンを争う上で有効ポイントとして加算されるのは13戦のうち7戦で獲得したポイントである。詳細は「ロードレース世界選手権のレギュレーション#1958年 - 1968年」を参照 250ccクラスのライダー選手権では、マイク・ヘイルウッド(ホンダ)が獲得したポイントは第1戦から第13戦までの13戦で「0 - 0 - 4 - 8 - 8 - 6 - 0 - 4 - 8 - 8 - 0 - 8 - 0」(総計54ポイント)となり、有効ポイントは50、優勝回数は5回。フィル・リード(ヤマハ)が獲得したポイントは「8 - 6 - 6 - 6 - 0 - 0 - 8 - 8 - 0 - 0 - 8 - 6 - 0」(総計56ポイント)となり、有効ポイントは50、優勝回数は4回。ヘイルウッドとリードの有効ポイントが同ポイントのため、世界チャンピオンの決定は10月末に開催されるFIMの総会まで持ち越され、その結果、優勝回数が多いヘイルウッドが世界チャンピオンになる。メーカー選手権に影響を与える他のライダーが獲得したポイントは次のとおり -- ビル・アイビー(ヤマハ)が「0 - 0 - 8 - 0 - 6 - 8 - 6 - 6 - 6 - 4 - 6 - 0 - 1」(総計51ポイント)で有効ポイントは46となり、ランキング3位。ラルフ・ブライアンズ(ホンダ)が「6 - 8 - 3 - 4 - 4 - 4 - 4 - 3 - 0 - 6 - 4 - 4 - 8」(総計58ポイント)で有効ポイントは40となり、4位。本橋明泰(ヤマハ)が「0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 0 - 6」(総計6ポイント)で有効ポイントは6となり、9位。 メーカーチャンピオンシップは、レースにおいて同一メーカーのバイクに乗る1人あるいは複数のライダーのうち最も高いポイントを獲得したライダーのポイントをメーカーが獲得したポイントとして加算し、選手権を競う。今シーズンの250ccクラスの場合は、ホンダを駆るライダーはマイク・ヘイルウッドとラルフ・ブライアンズの2人、ヤマハを駆るライダーはフィル・リードとビル・アイビー、本橋明泰の3人。ホンダの獲得ポイントは「6 - 8 - 4 - 8 - 8 - 6 - 4 - 4 - 8 - 8 - 4 - 8 - 8」(第2戦と第13戦がブライアンズ、第4戦と第5戦、第9戦、第10戦、第12戦がヘイルウッド)となり、ホンダの有効ポイントは56。ヤマハの獲得ポイントは「8 - 6 - 8 - 6 - 8 - 8 - 8 - 8 - 6 - 4 - 8 - 6 - 6」(第1戦と第6戦、第7戦、第10戦がリード、第3戦と第6戦がアイビー、第13戦が本橋)となり、ヤマハの有効ポイントは54。よって、メーカーチャンピオンはホンダになる。 黄禍論出現1961年にはヨーロッパの人々からも称賛されたホンダであるが、日本の3メーカー(ホンダ、スズキ、ヤマハ)のマシンが常勝するようになると状況が変わり、ヨーロッパではこの状況を「黄禍」と報じるメディアまで現れる。WGPからF1に転じたイギリス人ジョン・サーティースが1967年のイタリアGPでホンダ/ローラ(イギリス)のマシンを駆って優勝したときには「日本のマシンが勝った」と言われ、ヨーロッパの人々は快く思わなかった。 1968年 - ホンダとスズキがワークス活動を停止 ホンダとスズキが今シーズンからワークス活動を停止した。250ccクラスではヤマハのライダー同士の接戦になりフィル・リードが世界チャンピオンになる。 選手権のポイント制度1950年から1968年までの期間に採用していたポイント制度では、各レースの上位6人のライダーにポイントが与えられ、1位 8ポイント、2位 6ポイント、3位 4ポイント、4位 3ポイント、5位 2ポイント、6位 1ポイント、である。 250ccクラスの選手権の有効ポイント1968年の250ccクラスの場合はレースは10戦あり、世界チャンピオンを争う上で有効ポイントとして加算されるのは10戦のうち6戦で獲得したポイントである。詳細は「ロードレース世界選手権のレギュレーション#1958年 - 1968年」を参照 250ccクラスのライダー選手権では、フィル・リード(ヤマハ)が獲得したポイントは第1戦から第10戦までの10戦で「0 - 8 - 0 - 6 - 8 - 6 - 8 - 8 - 0 - 8」(総計ポイント52)となり、有効ポイントは46、優勝回数は5回。ビル・アイビー(ヤマハ)が獲得したポイントは「8 - 0 - 8 - 8 - 0 - 8 - 6 - 0 - 8 - 6」(総計ポイント52)となり、有効ポイントは46、優勝回数は5回。二人とも同ポイントで優勝回数も同じだったため、ベスト・フォー・レースの合計タイムが速い方をチャンピオンとすることになり、リードがアイビーよりも2分05秒3 速く、リードが世界チャンピオンになる。
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