ロサスの敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/07 17:22 UTC 版)
同盟軍が陸路でブエノスアイレスに向けて進軍している間、カシアス率いるブラジル軍は支援として海路からの攻撃を計画した。1852年1月29日、同盟軍の後衛はカンポ・デ・アルバレスの戦い(ポルトガル語版)でアンヘル・パチェコ(英語版)が同盟軍の進軍を遅らせるために派遣した、大佐2人率いるアルゼンチン軍4千を撃破した。パチェコは撤退した。その2日後、パチェコ自ら率いた部隊はマルケス橋の戦いで同盟軍の2個師団に撃破された。2月1日、同盟軍はブエノスアイレスからあと約9kmのところまで着いた。翌日には両軍の後衛の間で小競り合いがおき、アルゼンチン軍の撤退に終わった。 2月3日、同盟軍はロサス自ら率いるアルゼンチン本軍に遭遇した。名目上では両軍の勢力が近かった。同盟軍はアルゼンチン軍20,000、ウルグアイ軍2,000、ブラジル軍の精兵4,000であり、内訳は騎兵16,000、歩兵9,000、砲兵1,000、大砲45門だった。アルゼンチン側は騎兵15,000、歩兵10,000、砲兵1,000、大砲60門だった。ロサスはモロンの逆側、カセーロスの山にある高地という有利な位置に陣地を構え、本部をカセーロスの山頂にある館に設けた。 同盟軍の指揮官はソウサ、マヌエル・ルイス・オソリオ(英語版)(後にエルヴァル侯爵)、ホセ・マリア・ピラン(スペイン語版)、ウルキーサ、ガルソンが1851年12月に急死した後の後任であるホセ・ミゲル・ガラン(スペイン語版)、そしてアルゼンチンの統一党を率いたバルトロメ・ミトレ(英語版)とドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント(英語版)である。これらの指揮官は作戦会議を開いて、攻撃開始を命じた。両軍の前衛はほぼその直後に戦闘を開始した。 カセーロスの戦い(英語版)は同盟軍の決定的な勝利に終わった。同盟軍は不利な陣地で戦闘を開始したが、一日中続いた戦闘でロサスの軍勢を殲滅した。ロサスは同盟軍が本部まで攻め込む数分前に戦場から離れた。彼は海員に扮してイギリス駐ブエノスアイレス大使ロバート・ゴア(Robert Gore)を探し出し、亡命を求めた。ゴアはロサスとロサスの娘マヌエラ・ロサス(英語版)をイギリスに逃亡させることに同意した。ロサスはその後、1877年に死去するまでイギリスに滞在した。公的記録では同盟軍の死傷者を600人とし、アルゼンチン軍の損害を死傷者1,400人、捕虜7,000人とした。しかし、戦闘の長さと規模を鑑みると、過小評価の可能性がある。 同盟軍はブエノスアイレスで勝利の行進を行った。中でもブラジル軍は25年前のイトゥサインゴの戦い(英語版)の仕返しとばかりに、イトゥサインゴの戦いの日付である2月20日に勝利の行進を行うことを堅持した。ブエノスアイレスの住民は恥と敵意を感じながら、沈黙してブラジル軍の行進を見たという。
※この「ロサスの敗北」の解説は、「ラ・プラタ戦争」の解説の一部です。
「ロサスの敗北」を含む「ラ・プラタ戦争」の記事については、「ラ・プラタ戦争」の概要を参照ください。
- ロサスの敗北のページへのリンク