戦闘の勃発とは? わかりやすく解説

戦闘の勃発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:19 UTC 版)

戊辰戦争」の記事における「戦闘の勃発」の解説

慶応4年1868年1月2日夕方幕府軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩軍艦砲撃事実上戦争開始される。翌3日慶喜大坂各国公使対し薩摩藩交戦至った旨を通告し、夜、大坂薩摩藩邸を襲撃させる。藩邸には三万両余り軍資金置かれていたが、藩士税所篤藩邸火を放ったうえでこれを持ち出し脱出したため、軍資金幕府の手に渡る事は無かった同日京都南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩長州藩によって構成され新政府軍旧幕府軍は戦闘態となり、ここに鳥羽・伏見の戦い開始された。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000と言われている。 新政府軍武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日緒戦混乱および指揮戦略不備などにより旧幕府軍が苦戦したまた、新政府危惧していた旧幕府軍による近江方面からの京都侵攻もなかった。翌1月4日旧幕府軍の淀方向への後退続き同日仁和寺宮嘉彰親王征討大将軍為し錦旗節刀与え出馬する朝命下った薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩錦旗を賜って官軍に任ぜられた。逆に旧幕府勢力賊軍認知されるに及び、佐幕派諸藩大い動揺した。こういった背景により5日藩主である老中稲葉正邦留守守っていた淀藩賊軍となった旧幕府軍の入城受け入れず旧幕府軍は淀城下町放火しさらに八幡方向後退した6日旧幕府軍は八幡・山崎で新政府軍迎え撃ったが、山崎砲台駐屯していた津藩旧幕府軍への砲撃始めた旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂戻った。 この時点では未だに兵力旧幕府軍が上回っていたが、6日夜、慶喜自軍捨てて大坂城から少数側近連れ海路江戸へ退却した慶喜退却により旧幕府軍は戦争目的喪失し各藩戦い停止して兵を帰した。また戦力一部江戸方面へと撤退した

※この「戦闘の勃発」の解説は、「戊辰戦争」の解説の一部です。
「戦闘の勃発」を含む「戊辰戦争」の記事については、「戊辰戦争」の概要を参照ください。

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