戦闘の再開と終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/14 07:08 UTC 版)
「ポルトガルによるバンダ・オリエンタル侵攻 (1811年-1812年)」の記事における「戦闘の再開と終結」の解説
1812年、ディオゴ・デ・ソウザは16歳から40歳までのリオグランデ人を軍に徴集して再度攻撃を開始、5月2日にパイサンドゥーに入城した。ベント・マヌエルがヤペユ(英語版)を攻撃した一方、フランシスコ・ダス・シャガス・サントス(ポルトガル語版)大佐率いる民兵300人はサント・トメ(英語版)を破壊、ジョゼ・デ・アブレウ(ポルトガル語版)大尉の軍勢はアルティーガスのグアラニー族後衛を撃破した。 しかし、リオ・デ・ラ・プラタ連合州は再びモンテビデオを包囲(英語版)しようとしており、背後を固める必要があったため、イギリスの仲介に頼って5月26日にポルトガルと講和、エレーラ=ハデマーケル条約(スペイン語版)を締結した。 6月10日、ディオゴ・デ・ソウザは戦闘終結の命令を受けてバジェ(英語版)に戻り、民兵隊の動員を解除して戦役を終結させた。 1816年、ポルトガルは再びバンダ・オリエンタルに侵攻(英語版)、今度は併合に成功した。
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