戦闘の前奏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/07 19:57 UTC 版)
9月20日、ゼッケンドルフの精兵はライン川の渡河をはじめ、モーゼル川にむけて移動し始めた。彼は41個大隊、約3万5千人を率いていた。同日、フランス左翼を率いるシャルル・ルイ・オーギュスト・フーケ・ド・ベル=イル元帥は一定の規模を持つ派遣隊を率いてカイザースラウテルンから出撃、トリーアに駐留して補給をせしめようとした。27日にトリーアに到着すると、ベル=イルは指揮権をベテューヌ伯爵(Béthune)に預け、29日にバート・デュルクハイムにいるフランス大本営へと戻った。彼はそこでゼッケンドルフの行軍を知り、大本営に留まった予備軍12個大隊にトリーアへの行軍を命じ、さらにオッゲルスハイムにいる本軍から9個大隊を引き抜いてトリーアに移動させた。10月6日に予備軍がトリーアに着き、本軍の9個大隊はその翌日に着いた。これにより、トリーアにいるフランス軍は歩兵29個大隊、騎兵66個中隊となったが、同時に補給も不足した。ベル=イルはすぐに前進し、モーゼル川の南にあるルーヴェル川(英語版)に沿って防御線を築いた。さらにムシー侯爵(Mouchy)率いる派遣隊を北東のリーゼル(英語版)に偵察に行かせ、10日にルトー(Lutteaux)率いる1千人をムシーの増援として派遣した。 ゼッケンドルフは5日にシュトロムベルク(英語版)に着き、翌日にはジンメルンに向けて前進していたが、前方のハンガリー騎兵がキルヒベルクでフランスの竜騎兵の派遣隊に遭遇した。オーストリア軍はすぐに軍を前方に派遣、短期間の戦闘の後フランス軍の大半を捕虜にした。オーストリア軍は8日にはトラーバッハを占領、補給基地として使おうとした。ゼッケンドルフは補給を待っている間、リーゼルにあるフランス軍の陣地を視察し、フランス軍の目的がモーゼル川渡河の阻止であると考えた。彼はオーストリア軍左翼にさらに前進することを命令し、グレーフェンドロン(英語版)まで進めてムシーの補給と連絡を切断しようとした。一方で本軍はリーゼルの南東にあるモンツェルフェルト(英語版)へ進軍した。ゼッケンドルフは10月15日に派遣隊を送り、トラーバッハの西でモーゼル川北岸にあるクラウゼン(英語版)がフランス軍に占領されているかを調べた。そして、占領されていないことがわかると、修道院にフザール40人を配置した。次の日、歩兵25個中隊と騎兵800人からなるフランスの先遣隊が修道院を強襲したが、ヴィットリヒからのオーストリア援軍が到着すると撤退した。ゼッケンドルフは続いてシュタイン男爵の旅団全体(直近に到着したイリュリア人部隊300人を含む)をクラウゼンに派遣した。ライン川沿岸の補給基地からの補給が遅れたことでゼッケンドルフは進軍を止めざるを得なかったが、彼の進軍はムシーにリーゼルからの撤退を迫ることに成功し、さらにポンツーンで橋を架けることにも成功した。 10月11日、コワニー元帥はベル=イルの軍勢を支援すべきと考えた。ライン川にある本営から離れると、彼は自軍の大半をカイザースラウテルンとトリーアに向かわせた。コワニー軍の最前列は17日にトリーアに到着、ベル=イルは前進することを決めた。19日、彼はトリーアの南でモーゼル川を渡り、北岸で軍営を置いた。18日にリーゼルで渡河をはじめたゼッケンドルフはこの動きを知った。彼はオザン(英語版)で軍営を立てようとしたが、この報せで計画を変え、19日の夜に左翼の騎兵とゲオルク・フォン・ヘッセンの歩兵に、朝4時にモーゼルを渡河してクラウゼンに向けて行軍するよう命じた。リーゼルとベルンカステルで渡河するこれらの軍勢は正午にはクラウゼンに着く予定だった。
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