戦闘の地勢と、部隊の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:51 UTC 版)
「中国農場の戦い」の記事における「戦闘の地勢と、部隊の展開」の解説
2本の主な道路がデバーソワーに通じていた。1本目がタサ・テル・サラム街道で、イスラエル軍は「アカビシュ」のコードネームを付加した。この道はアーティレリー街道(運河の15キロ(9.3マイル)東側を、南北に走っていた)をレキシコン街道(運河のすぐ東側を、南北に走っていた)と接続していた。レキシコンとアカビシュの交差点は、グレートビター湖近くでデバーソワーから6キロ(3.7マイル)南のテル・サラームに面し、そこにラケカン要塞(バーレブ防衛線の一翼)が位置していた。「ティルツール」のコードネームを付加された2本目は、アカビシュの北側を通っていた。こちらもアーティレリーとレキシコンを接続していたが、「置き場」への直通路でもあった。レキシコンとティルツールの交差点はマツメド要塞に面していた。500メートル(1,600フィート)の距離を置いた2つの拠点からなるこの要塞は、10月9日に小規模な強襲部隊が占拠しており、一方でラケカン要塞では10月8日に、戦闘もなく退避が行われていた。両要塞の重要性は、それらがレキシコン・アカビシュとレキシコン・ティルツールの各交差点を抑えている点にあった。しかしながら両要塞は、第2軍と第3軍の間にある35キロ(22マイル)の長さの、緩衝目的とされた地帯内にあった。いずれもグレートビター湖という天然の障害に隣接しており、またその大部分はエジプト軍の対空ミサイルの射程範囲外に位置していたので、防衛の必要はないと考えられていた。かくして当地域のエジプト軍指揮官は、自らの防衛網を南方へ拡大しない方を選び、それらを占拠されないままにしていたのであった。エジプト軍が両要塞の占拠と防衛を怠ったことが、イスラエル軍を「豪胆なる者たち」作戦で大いに助けることになった。 レキシコン・ティルツールの交差点のすぐ北側が、アル・ガラアの村落であった。1967年の六日間戦争に先立って、当村落は農業計画の地となっていた。この農業用地には数本の灌漑用の溝、そして日本製の分野向け機械類が備えつけられていた。シナイ半島がイスラエルの占領下に入ると、イスラエル軍兵士は機材の漢字を見て、軍用地図上で当地に「中国農場」の名称をつけた。中国農場のすぐ北と北西は、イスラエル軍のコードネーム「ミズーリ」として知られた丘陵の一塊であった。バドル作戦の間に、アル・ガラアと中国農場は第16歩兵師団が構築した橋頭保の中に含まれた。アブデル・ハミドの第16歩兵旅団がこれらの地点を占領し、防衛していた。最初の渡河に参加した後、旅団は師団の他部隊とともに、10月9日のツビア・ラビブ(ヘブライ語版)の旅団からの攻撃に直面した。イスラエル軍は当初には多少の前進を達成したものの、結局は撃退された。第16師団の橋頭保の内部に、同様に10月13日時点で位置していたのが第21機甲師団であった。その各部隊は橋頭保の中央部、そして北部に位置を取っていた。第14機甲旅団は渡河に関わっており、また第1機甲旅団とともに10月14日のエジプト軍の攻勢に参加した。結果として、稼働可能な戦車戦力の半数を喪失していた。その後において、オラビイ(英語版)の再編成と機甲部隊の損失への埋め合わせの努力は、頻繁な砲撃の集中とまた空爆によって妨げられた。10月15日には、エジプト軍の橋頭保には136輌の戦車が存在し、オラビイの各旅団の間で不均一に分散されていた。66輌が第1機甲旅団に、39輌が第14機甲旅団に、そして31輌が第18機械化旅団に属していた。大きな損失にも関わらず、橋頭保のエジプト軍戦力はレシェフ(英語版)の戦力を数において凌いでいた。 10月15日の早朝に、アダンは配下の師団を渡河準備のため、北の位置からタサの西の集結地点へと移動させた。シャロンの師団はシナイ戦線への到着以降、渡河用の装備や橋とともに、10月13日から中央地区に存在した。シャロンは自らの司令部を、運河の40キロ(25マイル)東にあったタサに置いていた。
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