平家の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 04:10 UTC 版)
玉葉によると18日、吾妻鏡によると20日、甲斐源氏の兵は富士川の東岸に進む。また、『吾妻鏡』によると頼朝は駿河国賀島に進んだとある。平家方はその西岸に布陣した。兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。『吾妻鏡』によると、この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった。この要因として、平氏軍の大半が遠征の中途で徴発された駆り武者によって占められていることなどが挙げられている。両軍の兵力差から、平家方は戦う前から戦意を喪失しており、奇襲に対してかなり神経質になっていたものと思われる。 両軍が対峙したその夜、平氏軍は突如撤退し、大規模な戦闘が行なわれないまま富士川の戦いは終結する。 なお、従来は頼朝が富士川の戦いの当事者と見なされていたが、最近の見解では合戦に勝利した主体そのものが甲斐源氏であり、『吾妻鏡』の記述は治承・寿永の乱で頼朝が常に源氏の中心であったかに装う後世の創作で、実際には頼朝は後方にあって副次的な役割しか果たしていないという説が有力である。近年発行の出版物では甲斐源氏主体説をとるものが増えている。
※この「平家の撤退」の解説は、「富士川の戦い」の解説の一部です。
「平家の撤退」を含む「富士川の戦い」の記事については、「富士川の戦い」の概要を参照ください。
- 平家の撤退のページへのリンク