平家の落人伝承
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伊勢平氏の落人伝承は三重県に数多く残るが、中でも芸濃町河内のものは際立った存在である。成覚寺の所蔵する『安濃郡河内村の始メ』には、伊勢国と伊賀国の境界に近い河内へ平家の落人が逃れてきたと伝えている。『安濃郡河内村の始メ』は前半部が『平家物語』からの抜粋、後半部が河内村の各集落の創設起源に関する物語で構成される。『安濃郡河内村の始メ』は成覚寺の僧である浄信が万治元年(1658年)に元の文書を筆写したものと末尾に記されているが、その時すでに浄信は亡くなっているはずなので、書き手は不明である。成覚寺には寛政丙辰年9月(グレゴリオ暦:1796年10月)の銘が入った平維盛の墓碑がある。以下が伝承の内容である。 「 維盛は熊野へ落ち延び、そこで入水したとされるが、実際には入水したと見せかけて熊野から伊勢国へ入り、河内までたどり着き、河内の落合集落に草庵を結び、承元4年3月28日(ユリウス暦:1210年4月23日)に河内で亡くなった。維盛とともに河内へ落ち延びた平家一門の21家はその後も河内に住み、子孫は250戸余まで繁栄した。 」 この伝承は寛政期以降に発信が強くなっており、渡辺康代は河内村の有力者であった落合家が平家の血筋を引く最も由緒正しい家柄であることを示すとともに、落合家が村を拓いたこと、木地師として昔から生計を立ててきたこと、落合家を中心として河内村が一体となっていることを知らしめる意図があったと推定している。その目的は、落合家が津藩の無足人(郷士)となるのにふさわしい家柄であることを示すと同時に、津藩の御林造林のために挙村一致させることであったと渡辺康代は考察している。 2011年(平成23年)6月5日には、同年の大河ドラマ『平清盛』放映による平家ブームの到来を想定し、伊勢平氏会が成覚寺で総会を開き、「平維盛の生涯」と題した講演も行われた。津市内には一志町波瀬と美杉町太郎生の落人伝承、産品の平家発祥の地伝説、河芸町別保の人魚伝説など平家にまつわる伝説を持つ地が数多く存在する。
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