古誌
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「京都丹波高原国定公園」の記事における「古誌」の解説
『和名類聚抄』では丹波の旧称を「太邇波(たには)」と伝え、これは「田庭」に置き換えられる。奈良時代に百万町歩開墾計画などで米の収穫量向上のため、開墾を奨励しつつも灌漑の重要性から森林がもつ涵養力に着目し伐採を禁じたが、田庭の所以たる水田を支えたのが丹波高原であり、乱開発を免れた。平城京から出土した『長屋王家木簡』には「桑田郡山国里 泰長椋伊賀加太万呂二人六斗」と記されたものがあり、山国郷から米が届けられていたことが確認された。山国荘とその周辺の京北一帯については『黒田地区文書』と呼ばれる時代を跨ぐ古文書群の一括史料から往時の様子が窺い知れ、平安時代に貴族の荘園として開拓が進み、平氏の所領を経て、鎌倉幕府の御家人で畿内の守護となった大内氏により検地された。なお、花脊別所町には平家の落人伝承があり、小規模な棚田が形成された。 『続日本紀』には文武天皇4年(700年)に「二月戊子 令丹羽国献錫」の記載があり、丹波高原から錫を産出していたことが窺える。 戦国時代に書かれた『人国記』の丹波地方(南丹)の記述には「丹波は四方山々にて、皆名門の人家なり。寒雪も北国ほどはなけれども、もつとも烈し。山谷の内の民なれば偏屈に狭かるべきことなれども、儒弱なる所以はこの国山城に隣りて都近きが故に、上邦の風俗を見るに慣れて自気の精出で、本強の質を失へり。」とあり、京の都に近いことからその影響を受けていることを指摘する。修理職領であった山国荘は室町時代には代官人事により禁裏領となり、応仁の乱後は宇津氏が違乱を行うものの、織田信長が朝廷の直務支配を回復したことが『御湯殿上日記』に見られる。江戸時代になると『丹波志』『山城名勝志』『山州名跡志』『丹哥府志』『峰山明細記』など多くの地誌が編纂され、自然環境に根差した文化がつぶさに書き伝えられており、上田秋成は『胆大小心録』で旧暦六月に丹波高原に湧き出る「丹波太郎」という積乱雲に触れているが、この雲がもたらす雨こそが丹波高原の生態系を形成する要因となっている。 一方で中丹側は山陰道に属していたことから出雲国系の文化の影響も示唆される。『丹波志』では丹波国は出雲の神によって拓かれたとし、一宮は亀岡市に鎮座する出雲大神宮になる。『日本書紀』では丹波を平定すべくヤマト王権から丹波道主命が派遣されたことになっており、『釈日本紀』に収録された『丹波国風土記』逸文ではこの時に桑と蚕が持ち込まれたとされ、丹波高原の気候が桑栽培に適していたこともあり旧桑田郡の地名が示すように養蚕が広まった。史実としては綾部は渡来人の漢氏に由来する養蚕が行われ、『延喜式』に記されている丹波国の租庸調には絹があり実際に養蚕が行われていたことが確認できる。
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