古誌とは? わかりやすく解説

古誌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:54 UTC 版)

京都丹波高原国定公園」の記事における「古誌」の解説

和名類聚抄』では丹波旧称を「太邇波(たには)」と伝え、これは「田庭」に置き換えられる奈良時代百万町歩開墾計画などで米の収穫量上のため、開墾奨励しつつも灌漑重要性から森林がもつ涵養力に着目し伐採禁じたが、田庭の所以たる水田支えたのが丹波高原であり、乱開発免れた平城京から出土した長屋王木簡』には「桑田郡山国里 泰長伊賀加太二人六斗」と記されたものがあり、山国郷から米が届けられていたことが確認された。山国荘その周辺京北一帯については『黒田地区文書』と呼ばれる時代を跨ぐ古文書群の一括史料から往時様子窺い知れ平安時代貴族荘園として開拓進み平氏所領経て鎌倉幕府御家人畿内守護となった大内氏により検地された。なお、花脊別所町には平家の落人伝承があり、小規模な棚田形成された。 『続日本紀』には文武天皇4年700年)に「二月戊子丹羽国献錫」の記載があり、丹波高原から錫を産出していたことが窺える戦国時代書かれた『人国記』の丹波地方南丹)の記述には「丹波四方山々にて、皆名門人家なり。寒北国ほどはなけれども、もつとも烈し山谷内の民なれば偏屈に狭かるべきことなれども、儒弱なる所以はこの国山城隣りて都近き故に、上邦の風俗を見るに慣れて自気の精出で、本強の質を失へり。」とあり、京の都に近いことからその影響受けていることを指摘する修理職であった山国荘室町時代には代官人事により禁裏領となり、応仁の乱後宇津氏が違乱を行うものの、織田信長朝廷直務支配回復したことが『御湯殿上日記』に見られる江戸時代になると『丹波志』『山城名勝志』『山州名跡志』『丹哥府志』『峰山明細記』など多く地誌編纂され、自然環境根差した文化つぶさに書き伝えられており、上田秋成は『胆大小心録』で旧暦六月丹波高原湧き出る丹波太郎」という積乱雲触れているが、このもたらすこそが丹波高原生態系形成する要因となっている。 一方で中丹側は山陰道属していたことから出雲国系の文化の影響示唆される。『丹波志』では丹波国出雲の神によって拓かれたとし、一宮亀岡市鎮座する出雲大神宮になる。『日本書紀』では丹波平定すべくヤマト王権から丹波道主命派遣されたことになっており、『釈日本紀』に収録された『丹波国風土記逸文ではこの時に持ち込まれたとされ、丹波高原気候栽培適していたこともあり旧桑田郡地名が示すように養蚕広まった史実としては綾部渡来人漢氏由来する養蚕が行われ、『延喜式』に記されている丹波国租庸調には絹があり実際に養蚕が行われていたことが確認できる

※この「古誌」の解説は、「京都丹波高原国定公園」の解説の一部です。
「古誌」を含む「京都丹波高原国定公園」の記事については、「京都丹波高原国定公園」の概要を参照ください。

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