古記録に見る金堂の仏像安置状況
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「法隆寺の仏像」の記事における「古記録に見る金堂の仏像安置状況」の解説
天平19年(747年)作成の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(以下、『資財帳』と略称)の冒頭には当時の法隆寺の資財として「仏像21具・5躯・40張」の存在を記し、その内訳を列挙している。以下に『資財帳』の該当箇所を引用する。 合仏像弐十壱具 伍躯 肆拾張〔注:「肆」は「四」に同じ〕 金泥銅薬師像 壱具〔注:「金泥」は原文では「金埿」。以下も同じ〕 (中略) 金泥銅釈迦像 壱具 (中略) 金泥銅像 捌具〔注:「捌」は「八」に同じ〕 金泥押出銅像 参具 宮殿像 弐具 壱具金泥押出千仏像 一具金泥銅像 金泥灌仏像 壱具 金泥千仏像 壱具 金泥木造 参具右人人請坐者 檀像 壱具右養老三年歳次己未従唐請坐者 金泥雑仏像 伍躯右人人請坐者 画仏像 肆拾張 廿七張人人請坐者 立釈迦仏像 壱張 立十弟子釈迦像 壱張 立薬師仏像 壱張右天平四年歳次壬申四月廿二日平城宮御宇 天皇請坐者 観世音菩薩像 捌張右天平四年歳次壬申四月廿二日平城宮御宇 天皇請坐者 合塔本肆面具𡓳 一具涅槃像土 一具弥勒仏像土 一具維摩詰像土 一具分舎利仏土〔注:「𡓳」は土偏に「聶」。〕右和銅四年歳次辛亥寺造者 合金剛力士形 弐躯 在中門右和銅四年歳次辛亥寺造者 上に引用のとおり、仏像には「一具」(一揃い)と数えるものと「一躯」と数えるものとがあり、「画仏像」は「一張」と数えている。「金泥銅薬師像 壱具」から「檀像 壱具」までの数を合計すると21具であり、冒頭の「仏像弐十壱具」の記載と一致している。したがって、別記されている中門の金剛力士像と五重塔内の塑像群(塔本肆面具)はこの「仏像弐十壱具」のうちに含まれないことは明らかであり、「仏像弐十壱具」とは金堂安置の仏像を指すとみられる。列挙されている仏像のうち、「押出銅像」とは、薄い銅板を立体的な型に乗せ、槌で叩いて打ち出したものである。「宮殿像」の「宮殿」(くうでん)とは厨子の意である。「宮殿像弐具」は、現存する玉虫厨子と橘夫人厨子を指すとするのが一般的な見方である。 承暦2年(1078年)の記録である『金堂仏像等目録』(『金堂日記』)によると、当時の金堂には釈迦像、薬師像以外にも多数の小仏像が安置されていた。これらの大部分は飛鳥の橘寺から移されたものであった。以下に同目録の主要部分を引用する。 一記録金銅仏像事 合 中尊金銅等身釈迦像一体 有脇士二体 東壇同三尺釈迦三尊〔ママ〕 西壇小仏十八体 之中一体橘寺仏 後東厨子 堂内金銅小仏三尊 西厨子 同阿弥陀三尊 中大厨子 上階奉安小仏肆拾陸体之中木仏一体又奉加納灌仏三体 但一体無頭 下階橘寺小仏肆拾肆体奉加納本仏〔「木仏」の誤写か〕八体抑橘寺仏本数四十九体也一体顕奉坐西小壇上有銘(以下略) 冒頭に「一記録金銅仏像事」とあるとおり、これは金銅仏の目録で、木彫仏については「木仏」と注記されている。この目録では「東壇」(東の間)の仏像が「釈迦三尊」となっているが、これは「薬師三尊」の誤りで、4年後の永保2年(1082年)の目録では「薬師」に訂正されている。この目録によれば、11世紀末の時点の金堂内の状況は次のようであった。「西壇」(西の間)には、鎌倉時代以降は阿弥陀三尊像が安置されているが、当時(11世紀末)は「小仏18体」があった。堂内には「後東厨子」「西厨子」「中大厨子」という3つの厨子があった。このうち中大厨子は現存しない。他の2つについては、鎌倉時代の『聖徳太子伝私記』(仁治3年・1242年頃)に詳細な記録があり、それと照合すれば、「後東厨子」が現存する玉虫厨子、「西厨子」が現存する橘夫人厨子にそれぞれ該当することが明らかである。「中大厨子」は上下2層に分かれ、上の段には小仏46体があり、うち1体が木造(したがって、他の像は金銅)、他に釈迦の誕生仏が3体あるが、うち1体は頭部を欠く。厨子の下の段には飛鳥の橘寺から移された小仏44体があり、他に木造仏8体があった(「本仏」は「木仏」の誤写と解釈されている)。橘寺から移された仏像はもとは49体あった。以上のように、11世紀末の金堂には100体以上の小仏像があった。 法隆寺には明治時代初期までは多くの小金銅仏(銅造・金鍍金の小型の仏像)があった。「四十八体仏」と通称されるこれらの小金銅仏は1878年(明治11年)、当時の皇室に献納され、現在は東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管されている。「四十八体仏」のうちには、上記目録に記載の「小仏」の一部が含まれているものと推定される。 現在、金堂内陣の須弥壇上には中央に釈迦三尊像、東に薬師如来像、西に阿弥陀三尊像を安置する。このほか、釈迦三尊像の左右に毘沙門天及び吉祥天像が立ち、須弥壇四隅に四天王像が立つ。『法隆寺大鏡』第一冊(1937年)によると、昭和戦前期の金堂には上述の諸仏のほか、玉虫厨子、橘夫人厨子(阿弥陀三尊像)、観音菩薩立像(百済観音)(以上国宝)、聖観音立像2躯、弥勒菩薩半跏像、普賢延命菩薩坐像(以上重要文化財)が安置されていたことがわかる。玉虫厨子以下の厨子や仏像は、1941年に大宝蔵殿が完成してからは、そちらへ移された。その後、昭和期には金堂北面には地蔵菩薩立像(国宝)と塑造吉祥天立像(重要文化財)が安置されていたが、これら2躯は大宝蔵院(上記大宝蔵殿とは別の建物)の完成後はそちらに移されている。
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