ボストンからニューヨークへ
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「ロングアイランドの戦い」の記事における「ボストンからニューヨークへ」の解説
1775年4月19日のレキシントン・コンコードの戦い後、イギリス軍はボストン市で包囲された。1776年3月4日、大陸軍の指揮官ワシントンはボストンを見下ろすドーチェスター高地に大砲を据えさせた。この大砲がボストン港のイギリス艦隊を脅かしていたので、イギリス軍の指揮官ハウはもはやボストン市を保持できないと悟った。2週間後の3月17日、ハウとその軍隊はボストン市を明け渡し、ノバスコシアのハリファックスに向った。 イギリス軍がボストンを放棄した後、ワシントンはニューヨーク市の戦略的重要さの故にイギリス軍がそこを攻撃してくるものと考え、ニューヨーク市に部隊を送り始めた。ワシントンも4月4日にボストンを出発した。その軍隊はロードアイランドからコネチカットを抜ける経路を採ったので、市民が外に出てきて喝采を送り、兵士達に食糧や飲み物を提供した。4月5日、プロビデンスでパレードを行い、数多い市民がワシントンと軍隊を見るために出てきた。それから8日後の4月13日、ワシントンはニューヨーク市に到着した。ワシントンはブロードウェイに作戦本部を置き、即座に行動を開始した。その前の2月に副指揮官のチャールズ・リーをニューヨークに派遣して市の守りを固めさせていた。リーは3月に大陸会議が彼をサウスカロライナに派遣するまでニューヨーク市の守りを統制するために留まっていたが、その後の防衛準備はウィリアム・アレクサンダー将軍(スターリング卿)に任されていた。リーとスターリングは防衛準備のために割ける要員をあまり持っていなかったので、ワシントンが到着した時は、その工事の半分しか終わっていなかった。リーは、もしイギリス軍が海上を支配した場合、ニューヨーク市を保持することが不可能と判断したので、イギリス軍がアメリカからどこの陣地でも奪おうとした時に大きな損失を出さざるをえないように守りを固めた。ブルックリンハイツに構築したスターリング砦と呼ぶ堡塁に沿って市の周辺にバリケードや方形堡が築かれた。リーはニューヨーク市にいる間に部隊をロングアイランドに派遣してロイヤリストを一掃させた。
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