やまだ‐りゅう〔‐リウ〕【山田流】
山田流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 05:54 UTC 版)
上方で箏曲が早くから隆盛していたのに比べ、中期まで江戸ではあまり人気がなかったのか、演奏する人が少なかった。そこで総検校の安村検校(1732年検校登官)は、江戸への勢力拡大を図り、弟子の長谷富検校を江戸へ下らせ、生田流系箏曲を広めさせたと言われる。その弟子山田松黒に教えを受けたのが山田検校斗養一であった。彼は江戸っ子好みの浄瑠璃を取り入れた新作を作り、山田流箏曲を創始した。山田は大変な美声の持ち主で、銭湯で歌ってはその技と曲を知らしめたと言う。かれはまた箏の改良も試み、より音量の大きな箏を完成させた。これを山田箏と呼び、現在では生田流諸派においても広く山田箏が愛用されている。こうして山田流箏曲は江戸人の嗜好に合い、以後江戸を中心に東日本に普及して、生田流と肩を並べる大流派となった。山田流箏曲は一中節などの浄瑠璃風の歌が中心である。
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山田流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/22 08:24 UTC 版)
箏曲の流派。上方中心の生田流に対し、江戸の山田検校が1777年頃に創始。東日本に広まった。その音楽は一中節など浄瑠璃のスタイルを取り入れ、歌本位。
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