山田浅右衛門家の収入
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「山田浅右衛門」の記事における「山田浅右衛門家の収入」の解説
山田浅右衛門家は浪人の身であり、幕府からの決まった知行を受け取ることはなかった。しかし様々な収入源があり、たいへん裕福であった。1843年(天保14年)の将軍の日光参詣の際には幕府に300両を献金している。一説には3万石から4万石の大名に匹敵するほどであったという。公儀御様御用の際には、幕府から金銀を拝領していた。また幕府だけでなく、大名家などで処刑を行う際にも役目を代行して収入を得ていた。これはさほどの収入ではなかった。 最大の収入源は「死体」であった。処刑された罪人の死体は、山田浅右衛門家が拝領することを許された。これら死体は、主に刀の試し斬りとして用いられた。当時の日本では、刀の切れ味を試すには人間で試すのが一番であるという常識があった。戦国時代はともかく平和な江戸時代においては、江戸市中においての試し斬りの手段としては、浅右衛門に依頼するのが唯一の手段であった。罪人の数が、試し斬りの依頼のあった刀の本数にはとうてい追いつかないため、斬った死体を何度も縫い直して、1人の死体で何振りもの刀の試し斬りを行った。浅右衛門自身による試し斬りに限らず、自ら試し斬りを行う武士に対して、死体を売却することもあった。 試し斬りの経験を生かし、刀剣の鑑定も行っている。諸家から鑑定を依頼され、手数料を受け取っていたが、後には礼金へと性質が変化し、諸侯・旗本・庶民の富豪愛刀家から大きな収入を得た。出入りする酒井雅楽頭家や立花家といった大名家から、毎年歳暮として米や鰹節を拝領していた。また、こうした人脈を利用して刀剣購入の世話をすることもあった。刀剣の位列も作成しており、5代吉睦が著書『懐宝剣尺』で発表した刀の切断能力を基に刀工を格付けした「業物」と呼ばれる指標は今日でも有名である。 さらに副収入として、山田浅右衛門家は人間の肝臓や脳や胆嚢や胆汁等を原料とし、労咳に効くといわれる丸薬を製造していた。これらは山田丸・浅右衛門丸・人胆丸・仁胆・浅山丸の名で販売され、山田浅右衛門家は莫大な収入を得ていた。また、遊女の約束用として死体の小指を売却することもあったという。 山田浅右衛門家は、その金を死んでいった者達の供養に惜しみなく使った。東京都池袋の祥雲寺には、6代吉昌が建立した髻塚(毛塚)と呼ばれる慰霊塔が残っている。また、罪人の今際の際の辞世を理解するために、3代以降は俳諧を学び、俳号を所持している。
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