山田浅右衛門家の社会的立場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 04:51 UTC 版)
「山田浅右衛門」の記事における「山田浅右衛門家の社会的立場」の解説
御様御用の役目自体は、腰物奉行の支配下にあったれっきとした幕府の役目であったが、山田浅右衛門家は旗本や御家人ではない、浪人の立場であった。これは、死の穢れを伴う役目のためにこうした措置がとられたと解釈されがちである。しかし、5代吉睦は、腰物奉行臼井藤右衛門に聞いた話として次のような記録を残している。 将軍徳川吉宗の前で山田浅右衛門吉時が試し斬りをし、吉宗がその刀を手にとって確かめるということがあったという。この時、吉時が幕臣になることを申し出ていれば、取り立てられたであろう。しかしその機会を失ったために、浪人の立場のままとなった。これが前例となり、浪人である山田浅右衛門家が御様御用を務める慣習になってしまった。 また、御様御用には技術が必要であるため、世襲の家系では水準を満たさない者が現れる可能性もあり、技術のある者がいる間だけの臨時雇いとして、山田浅右衛門家を浪人に留めたという説もある。その他、旗本や御家人では後述する役目外の収入を得ることが困難となるため、吉時があえて浪人の立場を望んだのではないかという説もある。 山田浅右衛門家は多くの弟子を取り、当主が役目を果たせない時には弟子が代行した。また当主に男子がいてもこれを跡継ぎとせず、弟子の中から腕の立つ者を跡継ぎに選んだ。前述の通り技術が要求されたからであるが、同時に罪人の首を斬る仕事を実子に継がせることへの嫌悪があったともいう。歴代の山田浅右衛門家で実子を跡継ぎにしたのは吉時・8代吉豊のみである(吉時を初代とみなす場合は1例のみとなる)。弟子は大名家の家臣やその子弟が多く、中には旗本や御家人も存在した。
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