江戸下向と帰洛とは? わかりやすく解説

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江戸下向と帰洛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:34 UTC 版)

尾形光琳」の記事における「江戸下向と帰洛」の解説

光琳江戸詰となった中村内蔵助頼り宝永元年1704年)頃、江戸へ下ったこの頃光琳は相変わらず経済的に貧窮していたようである。江戸で姫路藩主・酒井家から扶持を得、また、津軽家豪商三井家住友家冬木家(江戸深川豪商)などともつながりがあった。現存する冬木小袖」(東京国立博物館収蔵)は、光琳手描き秋草文様描いた小袖で、冬木家に伝来したものであり、『紅白梅図屏風MOA美術館収蔵)は津軽家伝来したのである光琳5年ほど江戸滞在した後、宝永6年1709年)に京都戻っている。正徳元年1711年)には京都新町通り二条下ル(二条城東方)に新居構え、ここで制作した。この屋敷については建築当時図面等の資料残されており、静岡県熱海市MOA美術館構内に「光琳屋敷」として復元されている。光琳代表作のひとつである『紅白梅図屏風晩年の作とされ、この屋敷2階画室描かれたと推定される。 死の3年前正徳3年1713年)には、長男の寿市郎宛てて今日遺言書相当する書を書いているが、その文中光琳は「相究タル家業モ之レ無ク」と書いている。このことから、光琳画業を「家業」と見なしておらず、しっかりした家業がないため、息子の寿市郎他家養子に出す決心したことがわかる。

※この「江戸下向と帰洛」の解説は、「尾形光琳」の解説の一部です。
「江戸下向と帰洛」を含む「尾形光琳」の記事については、「尾形光琳」の概要を参照ください。

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