大田南畝
太田南畝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 21:19 UTC 版)
文化元年(1804年)9月10日から文化2年(1805年)10月10日まで長崎奉行所支配勘定役。文庵を通じて逐一兆新の消息を聞き、嫁お冬の母乳の出が悪いことを相談して処方を受けた。自身も道中室積から病気に罹っていたが、『源平盛衰記』で平重盛が宋医の治療を断った例を引いて「官吏之身として異国之薬服すべき事」はできないと処方を断った。文化2年(1805年)2月2日初めて対面した。
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