西山拙斎とは? わかりやすく解説

にしやま‐せっさい【西山拙斎】

読み方:にしやませっさい

[1735〜1798]江戸中期儒学者備中(びっちゅう)の人。名は正。字(あざな)は士雅。大坂医学儒学修め郷里で塾を開いて育英任じた。著「間窓瑣言」など。


にしやませっさい 【西山拙斎】


西山拙斎

儒学者。名は正、字は士雅、別号至楽居・緑天・雪堂備中生。大阪出て医学古林見宜に、儒学岡田駒・那波魯堂に学ぶ。郷に帰り子弟教授し朱子学唱え終身諸候の聘に就かなかった。歌は澄月門人著書に『間窓消事』『芳野紀行』等がある。寛政10年(1798)歿、64才。

西山拙斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/16 19:42 UTC 版)

西山 拙斎(にしやま せっさい、享保20年8月17日1735年10月3日) - 寛政11年11月5日1799年12月1日))は、江戸時代儒学者浦上玉堂と同じ備中国鴨方藩(現在の岡山県浅口市)の文人。父は医師の恕玄。

経歴

16歳のときに大坂へ遊学に行き、医術は古林見宜に、儒学は岡白駒に学んだ。岡白駒没後、儒学は白駒の外孫の那波魯堂から学ぶようになり、那波魯堂の上京にも従った。後に那波魯堂は古文辞学から朱子学に転じ、拙斎もまた朱子学に転じた。

昌平坂学問所の儒官であった柴野栗山に朱子学を官学とするよう説得した。これが老中松平定信による寛政異学の禁の遠因となったといわれる。

39歳のとき鴨方に欽塾を開き、子弟に朱子学を教えた。生涯仕官せず、諸侯の招聘を辞した。里謡に「鴨方に過ぎたるものが三つある。拙斎、索我、宮の石橋。」と謡われ、名声は大坂にも知れ渡った。

大正8年(1919年)、正五位を追贈された[1]

脚注

  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.48

関連項目




西山拙斎と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「西山拙斎」の関連用語

西山拙斎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



西山拙斎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
中経出版中経出版
Copyright (C) 2025 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの西山拙斎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS