那波活所とは? わかりやすく解説

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なわ‐かっしょ〔なはクワツシヨ〕【那波活所】

読み方:なわかっしょ

[1595〜1648]江戸初期儒学者播磨(はりま)の人。字(あざな)は道円。姓は「なば」とも読む。藤原惺窩(ふじわらせいか)に学び、のち、紀伊徳川頼宣仕えた。著「人君明暗図説」「活所遺稿」。


なわかっしょ 【那波活所】

江戸前期儒学者播磨豪商生まれ。名は方、のち觚、字は道円幼時より聡明読書好み長じて藤原惺窩師事林羅山らと四天王一人数えられた。業成って和歌山藩儒官。しばしば藩主献策した。著『帝王暦数図』『人君明暗図説』他。(一五九五一六四八

那波活所

読み方なば かっしょ

江戸前期儒者姫路の人。名は方、のち觚、字は道円通称平八郎藤原惶窩に師事し林羅山堀杏庵松永尺五とともに惶窩門四天王称された。和歌山藩主徳川頼宣に仕えた正保5年(1648)歿、54才。

那波活所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 14:14 UTC 版)

那波 活所(なば かっしょ、文禄4年(1595年) - 正保5年1月3日1648年1月27日))は、江戸時代初期の儒学者。名は信吉・方・觚。字は道円。通称は平八。

人物・経歴

播磨国姫路豪農の家に生まれ、京都の銅駝坊に移り、藤原惺窩に師事した[1]林羅山松永尺五堀杏庵とともに「惺窩門四天王」の一人と称される[1]1623年元和9年)肥後国熊本藩加藤忠広に仕えたが、1630年(寛永7年)に致仕[1]。加藤家改易の後、1635年寛永12年)から紀伊国和歌山藩徳川頼宣に儒臣として仕えた[1]京都銅駝坊の自宅で没した[1]

那波木庵は長男、『学問源流』などを著した那波師曾(魯堂)は玄孫にあたる[1]。後世の孫には、京都大学教授で東洋史学者の那波利貞がある。

著作

  • 『活所遺稿』
  • 『活所忘備録』
  • 『桜譜』- の専門書の先駆けであるばかりでなく、桜の品種を記載したものとして貴重。
  • 『四書註者考』
  • 『人君明暗図』
  • 古活字版『倭名類聚抄
  • 古活字版『白氏文集』

脚注

  1. ^ a b c d e f 岡本勝雲英末雄編『新版 近世文学研究事典』おうふう、2006年2月、246頁。 



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