即位説と名分論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/22 02:23 UTC 版)
江戸時代から1945年(昭和20年)まで、即位説は論者の道徳的姿勢にも関わる問題と意識されていた。初めに即位を論じた那波活所は、自説を蜀漢皇帝を正当とした例にならうものとして、宋学の名分論を前面に出した。その後も弘文天皇即位説をとる者の多くは、天武天皇を簒奪者として非難し、そのような非難をしないのは反逆の容認につながると論敵を非難した。逆に非即位説の論者は、臣下の身で勝手に天皇の称号を与える不遜を咎めて応酬した。 こういうわけで、明治初期までイデオロギー的発言は活発だったが、学問上の論争にとどまる限り、それがいずれかの有利不利に働くことはなかった。明治3年に大友皇子即位説が政府公認となったのは、単にそれが当時有力な説だったからである。政府関係者はその検討の際に非即位論が不敬だとは考えなかった。 しかし、ひとたび追諡がなされると、弘文天皇即位に反対するものは追諡した明治天皇の決定に反することになった。当時の日本では、歴史学界内部に限れば冷静な議論が可能であったが、一歩外に出れば学問の自由は存在せず、政府、政治家、神道家、新聞が、学者の不敬を格好の攻撃材料とした。倭姫王即位説を唱えるに際し、喜田は自説が不敬ではないという言い訳を、苦しい理屈を作って弁じなければならなかった。学者たちは萎縮し、結果として、倭姫王即位説への反応は賛否とも鈍いものであった。
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