ビザンツ帝国との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 15:49 UTC 版)
「イヴァン・アレクサンダル」の記事における「ビザンツ帝国との関係」の解説
1340年代初頭にブルガリアとビザンツ帝国の関係は一時的に悪化する。イヴァン・アレクサンダルはビザンツに亡命していた従兄弟のシシュマンの身柄の引渡しを要求し、戦争という手段でビザンツに圧力をかけた。武力の示威は裏目に出、ビザンツはアナトリア半島のスミルナを支配するトルコ系のベイリク国家アイドゥン侯国に艦隊の派遣を要請した。ドナウデルタに上陸したアイドゥン侯国の軍隊はブルガリアの村落を略奪し、近隣の都市を攻撃した。イヴァン・アレクサンダルは要求を撤回することを余儀なくされたが、1341年末にアドリアノープルの住民に呼び出されたと主張して、再びビザンツ領に侵入した。アドリアノープル近郊でブルガリア軍はビザンツと同盟を結んだトルコの軍隊と二度にわたって交戦するが、勝利を収めることはできなかった。 1341年から1347年にかけて、ビザンツ帝国はヨハネス5世パレオロゴスの皇太后アンナとヨハネス・カンタクゼノス(皇帝ヨハネス6世)が争う、長期の内戦に突入する。ビザンツの隣国は内戦に介入し、セルビア王ウロシュ4世はヨハネス6世、イヴァン・アレクサンダルはヨハネス5世と母后のアンナの支持に回った。ブルガリアとセルビアはビザンツの内戦において異なる勢力を支持したものの、二国間で結ばれていた同盟関係は維持されていた。1344年にブルガリアはヨハネス5世の党派から支援の見返りとしてフィリッポポリス(プロヴディフ)、ロドピ山脈の9つの重要な城砦を割譲される。
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