ハムダーン朝との対立
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「ムハンマド・ブン・トゥグジュ」の記事における「ハムダーン朝との対立」の解説
しかしながら、バグダードにおいて政治的な混乱が続いたためにこの和平は長くは続かなかった。941年9月にイブン・ラーイクはカリフのムッタキー(在位:940年 - 944年)の求めに応じて再びアミール・アル=ウマラーの地位に復帰したものの、かつてのような影響力は持ち合わせていなかった。イブン・ラーイクはもう一人の実力者でバスラを本拠地とするアブル=フサイン・アル=バリーディーの侵攻を食い止めることができず、カリフとともにバグダードを放棄してモースルのハムダーン朝の支配者に助けを求めざるを得なくなった。その後まもない942年4月にハムダーン朝を統治していたアブー・ムハンマド・アル=ハサン(フサイン・ブン・ハムダーンの甥にあたる)がイブン・ラーイクを殺害し、カリフからナースィル・アッ=ダウラ(英語版)(王朝の守護者)のラカブを得て後任のアミール・アル=ウマラーとなった。 イフシードはこの機会に乗じてシリアを再度占領するべく942年6月に自ら軍隊を率いてダマスクスへ遠征し、943年1月にエジプトへ引き上げた。同じ時期にハムダーン朝もシリアに対する領有権を主張したが、この時のイフシードとハムダーン朝のシリアにおける軍事活動の詳細は記録に残されていない。その後、アミール・アル=ウマラーとしてのナースィル・アッ=ダウラの立場は弱体化し、943年6月にトルコ人の将軍であるトゥーズーン(英語版)によって追放された。ムッタキーは新たにアミール・アル=ウマラーとなったトゥーズーンに不安を抱くようになり、同年10月にバグダードから逃れてハムダーン朝に保護を求めた。ハムダーン朝はカリフを保護したものの、2度にわたるトゥーズーンとの戦闘に敗れ、最終的にトゥーズーンによるイラクの領有を認める代わりにジャズィーラとシリア北部がハムダーン朝に与えられることになった。トゥーズーンとハムダーン朝は944年5月にこの協定を結び、ナースィル・アッ=ダウラは協定によって支配が認められたシリア北部を奪うために従兄弟のアル=フサイン・ブン・サイード(英語版)を派遣した。このハムダーン朝の侵攻に対してイフシード朝の軍隊は投降するか撤退し、アル=フサインはジュンド・キンナスリーンとジュンド・ヒムス(英語版)を速やかに占領した。 その一方でナースィル・アッ=ダウラの弟のサイフ・アッ=ダウラ(英語版)とともに行動していたムッタキーはトゥーズーンが進軍してくる前にラッカへ逃れていたが、ナースィル・アッ=ダウラがカリフの滞在に対して不満を持つようになったために次第にハムダーン朝に不快感を抱くようになり、さらにはトゥーズーンに対する不信感から(早ければ943年の冬に)イフシードに手紙を書いて支援を求めた。イフシードは速やかに軍隊を率いてシリアへ侵入することでこれに応えた。ハムダーン朝の守備隊はイフシードの軍隊を前にして撤退し、944年9月にイフシードはラッカに到着した。イフシードはイブン・ラーイクを殺害したハムダーン朝を信用せず、サイフ・アッ=ダウラが街を離れるのを待ってから街に入ってカリフと面会した。そしてムッタキーに対してトゥーズーンが危険な人物であることを指摘し、ともにエジプトへ来るか、少なくともラッカに留まるように説得を試みたものの、カリフはこの提案を拒否した。一方、ムッタキーもイフシードをトゥーズーンと戦わせようとしたが、イフシードはこれを拒否した。結局、ムッタキーがバクダードへの帰還を望んだために、イフシードはカリフに2名の従者と兵を付け、ムッタキーが帰還を決心した旨とムッタキーに従うように促す手紙を書いてトゥーズーンに使者を送った。 最終的にイフシードは、886年にトゥールーン朝のフマーラワイフとカリフのムウタミド(在位:870年 - 892年)の間で結ばれた条約とほぼ同様の内容で条約を事実上再締結する合意を確保したため、会談は完全に無益なものとはならなかった。カリフは30年間のイフシードの子孫による世襲の権利とともに、エジプトとシリア(スグールを含む)、およびヒジャーズ(イスラームの2つの聖地であるメッカとマディーナの名誉ある守護者としての責務も負っている)に対するイフシードの支配権を認めた。イフシードは前年にエジプトを離れていた際に、まだ成年に達しておらず、忠誠の誓い(バイア(英語版))を立てさせる必要があった息子のアヌージュールをすでに摂政として指名していたために、この世襲の承認は当初から見込まれていたものだった。しかしながら、歴史家のマイケル・ブレットが指摘しているように、ヒジャーズの聖地がカルマト派の襲撃にさらされ、国境地帯のスグールはビザンツ帝国によってますます脅かされつつあり、さらにはハムダーン朝がアレッポを含むシリア北部の領有を強く望んでいたために、カリフから与えられたこれらの地域は「ありがたくもあり、ありがたくもないもの」であった。 ムッタキーはトゥーズーンの忠誠心に疑いを抱いていたものの、結局トゥーズーン側の人物の言動を信用してバグダードへ向かった。しかし、944年10月にトゥーズーンとの会見に臨んだムッタキーはその場で捕えられ、盲目にされた上で退位させられた。そしてカリフの地位はムスタクフィーに取って代わられた。ムスタクフィーはイフシードの総督の地位を再承認したが、イフシードがすぐに新しいカリフを承認したわけではなかったために、この時点では承認はまだ意味をなさないものだった。13世紀の歴史家のイブン・サイード・アル=マグリビーは、イフシードがすぐに忠誠の誓いを行い、新しいカリフの名の下で金曜礼拝のフトバを朗誦したと記している。しかしバカラクは、入手可能な硬貨の証拠に基づき、イフシードはムスタクフィーとその後継者でブワイフ朝がカリフの地位に据えたムティー(在位:946年 - 974年)の両者ついて、自身が鋳造する硬貨にカリフの名の打刻をしばらく控える(この行為はバグダードからの意図的で明白な独立の意思表示とみなされ得る)ことで承認を数か月遅らせていたようにみえると指摘している。このイフシードの自立を示す証拠は他の史料からも認められ、同時代にビザンツ帝国で著された『儀式の書(英語版)』には、宮廷文書において「エジプトのアミール」に対する文書にバグダードのカリフに対するものと同じ4ノミスマ金貨に相当する価値の金印が用いられたと記録されている。 ムッタキーとの会談を終えたイフシードはエジプトに戻ったものの、シリアへの野心を持つサイフ・アッ=ダウラに対してその領域を無防備な状態で残した。シリアに残されたイフシード朝の軍隊は比較的弱体であり、キラーブ族の支持を得たサイフ・アッ=ダウラは944年10月29日にほとんど困難を伴うことなくアレッポを占領した。そしてヒムスにまで至るシリア北部一帯へ支配地を広げ始めた。イフシードは宦官のアブル=ミスク・カーフル(英語版)とファーティクが指揮する軍隊をハムダーン朝に向けて派遣したが、ハマーの近郊で敗北を喫し、エジプトへ撤退してダマスクスとパレスチナをハムダーン朝に明け渡した。この結果、イフシードは945年4月に直接指揮を執って再び軍事行動を起こさざるを得なくなった。しかしその一方でサイフ・アッ=ダウラに対して使者を派遣し、サイフ・アッ=ダウラによるシリア北部の支配を認める代わりにイフシードがダマスクスとパレスチナを領有し、ハムダーン朝に対して毎年貢納金を支払うという以前のイブン・ラーイクとの合意に沿った内容による協定の締結を提案した。これに対してサイフ・アッ=ダウラはこの提案を拒否し、エジプトを征服すると豪語すらしたと伝えられている。しかし、イフシードの工作員が困難を伴いながらもハムダーン朝の何人かの指導者を賄賂で取り込み、ダマスクスの市民を味方へ引き入れることに成功した。そしてダマスクスの市民はハムダーン朝に対して城門を閉ざし、イフシードのために城門を開いた。その後、双方の軍隊は5月にキンナスリーン(英語版)付近で衝突し、イフシードが勝利を収めた。サイフ・アッ=ダウラはラッカへ敗走し、イフシードはアレッポを占領した。 この成功にもかかわらず、イフシードは概ね以前の提案に沿った内容で10月にハムダーン朝と合意に達した。イフシードはこの合意の中でシリア北部に対するハムダーン朝の支配を認め、サイフ・アッ=ダウラがダマスクスに対するすべての主張を放棄することと引き換えに毎年貢納金を支払うことにも同意した。また、サイフ・アッ=ダウラはイフシードの娘か姪の一人と結婚することになった。イフシードにとってアレッポの維持はエジプトの東方の防波堤であるダマスクスが存在するシリア南部ほど重要ではなかった。そして、サイフ・アッ=ダウラの支配下に留まるという条件の下でハムダーン朝によるシリア北部の領有を積極的に認めた。東洋学者のティエリ・ビアンキは、イフシードは歴史的にジャズィーラとイラクの影響を強く受けていたシリア北部とキリキアの支配を主張し、さらにはその支配を維持し続けることが難しいことを理解していたであろうと述べ、エジプトはこれらの遠方の地域に対する主張を放棄することによって、これらの地域における大規模な軍隊の維持費用を免れただけでなく、ハムダーン朝がイラクと復活を遂げたビザンツ帝国の双方からの侵略に対する緩衝国家として有効な役割を果たすことになったと指摘している。実際に、直接国境を接していないこととファーティマ朝に対する共通の敵意が両者の利害が衝突しないことを保証していたために、イフシードとその後継者による統治の期間を通してビザンツ帝国との関係はかなり友好的であった。サイフ・アッ=ダウラがイフシードの死の直後に再びシリア南部への侵入を試みたにもかかわらず、この時に合意に達したエジプトが支配するシリア南部とメソポタミアの影響下にあるシリア北部を分ける境界線は、シリア北部が1260年にエジプトのマムルーク朝によって占領されるまで、双方の王朝が存続した期間を超えて存在し続けた。
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