ハムダーン朝との対立とは? わかりやすく解説

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ハムダーン朝との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:42 UTC 版)

ムハンマド・ブン・トゥグジュ」の記事における「ハムダーン朝との対立」の解説

しかしながらバグダードにおいて政治的な混乱続いたためにこの和平長くは続かなかった。941年9月にイブン・ラーイクはカリフムッタキー在位940年 - 944年)の求めに応じて再びアミール・アル=ウマラー地位復帰したものの、かつてのような影響力持ち合わせていなかった。イブン・ラーイクはもう一人実力者バスラ本拠地とするアブル=フサイン・アル=バリーディーの侵攻食い止めることができず、カリフとともにバグダード放棄してモースルハムダーン朝支配者助け求めざるを得なくなったその後まもない942年4月ハムダーン朝統治していたアブー・ムハンマド・アル=ハサン(フサイン・ブン・ハムダーンの甥にあたる)がイブン・ラーイクを殺害しカリフからナースィル・アッ=ダウラ英語版)(王朝守護者)のラカブ得て後任のアミール・アル=ウマラーとなった。 イフシードはこの機会乗じてシリア再度占領するべく942年6月に自ら軍隊率いてダマスクス遠征し943年1月エジプト引き上げた。同じ時期ハムダーン朝シリア対す領有権主張したが、この時のイフシードとハムダーン朝シリアにおける軍事活動詳細記録残されていないその後、アミール・アル=ウマラーとしてのナースィル・アッ=ダウラ立場弱体化し943年6月トルコ人将軍であるトゥーズーン(英語版)によって追放された。ムッタキー新たにアミール・アル=ウマラーとなったトゥーズーンに不安を抱くようになり、同年10月バグダードから逃れてハムダーン朝保護求めたハムダーン朝カリフ保護したものの、2度にわたるトゥーズーンとの戦闘敗れ最終的にトゥーズーンによるイラク領有認め代わりにジャズィーラシリア北部ハムダーン朝与えられることになった。トゥーズーンとハムダーン朝944年5月にこの協定を結び、ナースィル・アッ=ダウラ協定によって支配認められシリア北部を奪うために従兄弟アル=フサイン・ブン・サイード(英語版)を派遣した。このハムダーン朝侵攻に対してイフシード朝軍隊投降するか撤退しアルフサインはジュンド・キンナスリーンとジュンド・ヒムス(英語版)を速やかに占領した。 その一方でナースィル・アッ=ダウラの弟のサイフ・アッ=ダウラ英語版とともに行動していたムッタキーはトゥーズーンが進軍してくる前にラッカ逃れていたが、ナースィル・アッ=ダウラカリフ滞在に対して不満を持つようになったために次第ハムダーン朝不快感を抱くようになり、さらにはトゥーズーンに対す不信感から(早ければ943年の冬に)イフシードに手紙書いて支援求めた。イフシードは速やかに軍隊率いてシリア侵入することでこれに応えたハムダーン朝守備隊はイフシードの軍隊前にして撤退し944年9月にイフシードはラッカ到着した。イフシードはイブン・ラーイクを殺害したハムダーン朝信用せず、サイフ・アッ=ダウラが街を離れるのを待ってから街に入ってカリフ面会した。そしてムッタキーに対してトゥーズーンが危険な人物であることを指摘し、ともにエジプトへ来るか、少なくともラッカ留まるように説得試みたものの、カリフはこの提案拒否した一方ムッタキーもイフシードをトゥーズーンと戦わせようとしたが、イフシードはこれを拒否した結局ムッタキーバクダードへの帰還望んだために、イフシードはカリフに2名の従者と兵を付けムッタキー帰還決心した旨とムッタキーに従うように促す手紙書いてトゥーズーンに使者送った最終的にイフシードは、886年トゥールーン朝フマーラワイフカリフムウタミド在位870年 - 892年)の間で結ばれた条約とほぼ同様の内容条約事実上締結する合意確保したため、会談は完全に無益なものとはならなかった。カリフ30年間のイフシードの子孫による世襲権利とともにエジプトとシリア(スグールを含む)、およびヒジャーズイスラーム2つ聖地であるメッカマディーナ名誉ある守護者としての責務負っている)に対するイフシードの支配権認めた。イフシードは前年エジプト離れていた際に、まだ成年達しておらず、忠誠の誓いバイア英語版))を立てさせる必要があった息子のアヌージュールをすでに摂政として指名していたために、この世襲の承認当初から見込まれいたものだった。しかしながら歴史家のマイケル・ブレットが指摘しているように、ヒジャーズ聖地カルマト派襲撃さらされ国境地帯のスグールはビザンツ帝国によってますます脅かされつつあり、さらにはハムダーン朝アレッポを含むシリア北部領有強く望んでいたために、カリフから与えられたこれらの地域は「ありがたくもあり、ありがたくもないもの」であったムッタキーはトゥーズーンの忠誠心疑い抱いていたものの、結局トゥーズーン側の人物の言動信用してバグダード向かった。しかし、944年10月にトゥーズーンとの会見臨んだムッタキーその場で捕えられ、盲目にされた上で退位させられた。そしてカリフ地位ムスタクフィーに取って代わられた。ムスタクフィーはイフシードの総督地位を再承認したが、イフシードがすぐに新しカリフ承認したわけではなかったために、この時点では承認はまだ意味をなさないのだった13世紀歴史家のイブン・サイード・アル=マグリビーは、イフシードがすぐに忠誠の誓い行い新しカリフの名の下で金曜礼拝のフトバを朗誦した記している。しかしバカラクは、入手可能な硬貨証拠に基づき、イフシードはムスタクフィーその後継者でブワイフ朝カリフ地位据えたムティー在位946年 - 974年)の両者ついて、自身鋳造する硬貨カリフの名の打刻をしばらく控える(この行為バグダードからの意図的明白な独立意思表示みなされ得る)ことで承認を数か月遅らせてたようにみえると指摘している。このイフシードの自立を示す証拠他の史料からも認められ同時代ビザンツ帝国著された『儀式の書(英語版)』には、宮廷文書において「エジプトアミール」に対す文書バグダードカリフ対するものと同じ4ノミスマ金貨相当する価値金印用いられたと記録されている。 ムッタキーとの会談終えたイフシードはエジプト戻ったものの、シリアへの野心を持つサイフ・アッ=ダウラに対してその領域無防備な状態で残したシリア残されイフシード朝軍隊比較弱体であり、キラーブ族の支持得たサイフ・アッ=ダウラ944年10月29日にほとんど困難を伴うことなくアレッポ占領した。そしてヒムスにまで至るシリア北部一帯支配地を広げ始めた。イフシードは宦官アブル=ミスク・カーフル(英語版)とファーティクが指揮する軍隊ハムダーン朝向けて派遣したが、ハマー近郊敗北喫しエジプト撤退してダマスクスパレスチナハムダーン朝明け渡した。この結果、イフシードは945年4月直接指揮を執って再び軍事行動を起こさざるを得なくなった。しかしその一方でサイフ・アッ=ダウラに対して使者派遣し、サイフ・アッ=ダウラによるシリア北部支配認め代わりにイフシードがダマスクスパレスチナ領有しハムダーン朝に対して毎年貢納金を支払うという以前のイブン・ラーイクとの合意沿った内容による協定の締結提案した。これに対してサイフ・アッ=ダウラはこの提案拒否しエジプト征服する豪語すらしたと伝えられている。しかし、イフシードの工作員が困難を伴いながらもハムダーン朝何人かの指導者賄賂取り込みダマスクス市民味方引き入れることに成功した。そしてダマスクス市民ハムダーン朝に対して城門閉ざし、イフシードのために城門開いたその後双方軍隊5月にキンナスリーン(英語版付近衝突し、イフシードが勝利を収めた。サイフ・アッ=ダウララッカ敗走し、イフシードはアレッポ占領した。 この成功にもかかわらず、イフシードは概ね以前提案沿った内容10月ハムダーン朝合意達した。イフシードはこの合意の中でシリア北部対すハムダーン朝支配認め、サイフ・アッ=ダウラダマスクス対すすべての主張放棄することと引き換え毎年貢納金を支払うことにも同意したまた、サイフ・アッ=ダウラはイフシードの娘か姪の一人結婚することになった。イフシードにとってアレッポ維持エジプト東方防波堤であるダマスクス存在するシリア南部ほど重要ではなかった。そして、サイフ・アッ=ダウラ支配下留まるという条件の下でハムダーン朝によるシリア北部領有積極的に認めた東洋学者ティエリ・ビアンキは、イフシードは歴史的にジャズィーライラク影響強く受けていたシリア北部キリキア支配主張しさらにはその支配維持し続けることが難しいことを理解していたであろう述べエジプトはこれらの遠方地域対す主張放棄することによって、これらの地域における大規模な軍隊維持費用免れただけでなく、ハムダーン朝イラク復活遂げたビザンツ帝国双方からの侵略対す緩衝国家として有効な役割を果たすことになった指摘している。実際に直接国境接していないこととファーティマ朝対す共通の敵意が両者利害衝突しないことを保証していたために、イフシードとその後継者による統治の期間を通してビザンツ帝国との関係はかなり友好的であった。サイフ・アッ=ダウラがイフシードの死の直後に再びシリア南部への侵入試みたにもかかわらず、この時に合意達したエジプト支配するシリア南部メソポタミア影響下にあるシリア北部分け境界線は、シリア北部1260年エジプトマムルーク朝によって占領されるまで、双方王朝存続した期間を超えて存在し続けた

※この「ハムダーン朝との対立」の解説は、「ムハンマド・ブン・トゥグジュ」の解説の一部です。
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