ミュリオケファロンの戦い、国内の分裂
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「ルーム・セルジューク朝」の記事における「ミュリオケファロンの戦い、国内の分裂」の解説
即位後のクルチ・アルスラーン2世はダニシュメンド朝、ビザンツ帝国以外に弟のシャーヒンシャーと敵対していた。クルチ・アルスラーンはビザンツ帝国との関係を修復し、1161年から1162年にかけて自らコンスタンティノープルを訪問して協約を締結する。クルチ・アルスラーンはダニシュメンド朝と交戦した際、ダニシュメンド朝を支援するシリアのザンギー朝との関係を悪化させ、1172年(または1173年)にザンギー朝のヌールッディーンによって一時期スィヴァスを占領される。ザンギー朝との和議が成立してザンギー軍が撤退するとクルチ・アルスラーンはダニシュメンド朝支配下の都市を再び攻撃し、同時にザンギー朝との衝突を極力避ける方針を採った。1176年に東方の失地回復を図るマヌエル1世コムネノスが親征を行うと、クルチ・アルスラーンもトゥルクマーンからなる軍隊を率いて迎撃に向かい、9月17日にミュリオケファロンでビザンツ軍に勝利した(ミュリオケファロンの戦い)。ミュリオケファロンの勝利の後に両国の間に和平が結ばれ、ビザンツがルーム・セルジュークに対して大規模な軍事行動を行うことは無くなった。1178年にルーム・セルジュークはダニシュメンド朝を滅ぼし、アナトリアに確固たる支配権を築いた。1179年から1181年にかけて、シリア北部の都市の帰属を巡ってアイユーブ朝との関係が悪化するが、大規模な軍事衝突には発展しなかった。 クルチ・アルスラーンは晩年に11人の王子と1人の王女に領土を分割して与えるが、首都のコンヤを末子のカイホスロー(後のカイホスロー1世)に与えたために他の息子は不満を抱き、王子たちの間で争いが起きる。王子たちの内訌に加えて、西欧では1189年に第3回十字軍が開始され、アナトリアは神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の攻撃を受ける。1190年5月にフリードリヒ1世はコンヤに到達、一時十字軍にコンヤを占領される。1192年9月にクルチ・アルスラーンが没すると、王族間の争いはより激化する。 一旦はカイホスロー1世が王位を継ぐが、最終的にトカトの統治者であるスライマーン2世が王位に就き、カイホスローはアナトリアを脱してビザンツ帝国に亡命した。スライマーンは1204年にエルズルムを支配するアタベク政権のサルトゥク朝を滅ぼし、続いてグルジア王国への遠征を行うが敗戦に終わり、グルジア遠征の帰路でスライマーンは没した。スライマーン没後、彼の子のクルチ・アルスラーン3世が王位に就く。クルチ・アルスラーン3世が短い在位期間を経て廃された後、コンスタンティノープルから帰国したカイホスローが即位する。 カイホスロー1世の復位からカイクバード1世の治世にかけて、ルーム・セルジューク朝は最盛期を迎える。
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