ミュリオケファロンの戦い、国内の分裂とは? わかりやすく解説

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ミュリオケファロンの戦い、国内の分裂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 02:25 UTC 版)

ルーム・セルジューク朝」の記事における「ミュリオケファロンの戦い、国内の分裂」の解説

即位後のクルチ・アルスラーン2世ダニシュメンド朝ビザンツ帝国以外に弟のシャーヒンシャーと敵対していた。クルチ・アルスラーンはビザンツ帝国との関係修復し1161年から1162年にかけて自らコンスタンティノープル訪問して協約締結する。クルチ・アルスラーンはダニシュメンド朝交戦した際、ダニシュメンド朝支援するシリアザンギー朝との関係を悪化させ、1172年(または1173年)にザンギー朝ヌールッディーンによって一時期スィヴァス占領されるザンギー朝との和議成立してザンギー軍が撤退するとクルチ・アルスラーンはダニシュメンド朝支配下都市を再び攻撃し同時にザンギー朝との衝突極力避け方針を採った。1176年東方失地回復を図るマヌエル1世コムネノス親征を行うと、クルチ・アルスラーンもトゥルクマーンからなる軍隊率いて迎撃向かい9月17日にミュリオケファロンでビザンツ軍に勝利したミュリオケファロンの戦い)。ミュリオケファロンの勝利の後に両国の間に和平結ばれビザンツルーム・セルジュークに対して大規模な軍事行動を行うことは無くなった1178年ルーム・セルジュークダニシュメンド朝滅ぼしアナトリア確固たる支配権築いた1179年から1181年にかけて、シリア北部都市帰属巡ってアイユーブ朝との関係が悪化するが、大規模な軍事衝突には発展しなかった。 クルチ・アルスラーンは晩年11人の王子1人王女領土分割して与えるが、首都コンヤ末子カイホスロー(後のカイホスロー1世)に与えたために他の息子は不満を抱き王子たちの間で争い起きる。王子たち内訌加えて西欧では1189年第3回十字軍開始されアナトリア神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世攻撃を受ける。1190年5月フリードリヒ1世コンヤ到達一時十字軍コンヤ占領される1192年9月にクルチ・アルスラーンが没すると、王族間の争いはより激化する。 一旦はカイホスロー1世王位を継ぐが、最終的にトカト統治者であるスライマーン2世王位に就きカイホスローアナトリア脱してビザンツ帝国亡命したスライマーン1204年エルズルム支配するアタベク政権のサルトゥク朝を滅ぼし続いてグルジア王国への遠征を行うが敗戦終わりグルジア遠征帰路スライマーン没したスライマーン没後彼の子のクルチ・アルスラーン3世王位に就く。クルチ・アルスラーン3世が短い在位期間経て廃された後、コンスタンティノープルから帰国したカイホスロー即位するカイホスロー1世復位からカイクバード1世治世にかけて、ルーム・セルジューク朝最盛期迎える。

※この「ミュリオケファロンの戦い、国内の分裂」の解説は、「ルーム・セルジューク朝」の解説の一部です。
「ミュリオケファロンの戦い、国内の分裂」を含む「ルーム・セルジューク朝」の記事については、「ルーム・セルジューク朝」の概要を参照ください。

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