ビザンツとブルガリアの脅威
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 06:37 UTC 版)
「ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ」の記事における「ビザンツとブルガリアの脅威」の解説
セルビアはマケドニアのプリレプ城砦を占拠して南に領土を広げるが、ウロシュ3世の前にブルガリアとビザンツの同盟という大きな壁が立ち塞がる。1324年頃からセルビアとブルガリアの関係は悪化しており、ウロシュ3世の義弟であるブルガリア皇帝ミハイル3世シシュマンはウロシュ3世の妹アンナ・ネダ(en:Anna Neda of Serbia)を離縁してビザンツより王女を迎え入れていた。1329年春にブルガリアとビザンツはマケドニアに進出するセルビアに対抗して和約を結び、1330年春にブルガリアはワラキア公国、モルダヴィア公国、ジョチ・ウルスなどより支援を取り付け、またセルビアもドゥブロブニクの仲介によってカタルーニャ傭兵を雇った。同年にブルガリアはセルビアに大規模な侵攻を行い、ウロシュ3世は自らの治世の中で最も重要な局面を迎える。7月28日にヴェルブジュドの戦いでブルガリアの援軍が到達する前に攻勢に出て大勝を収め、この戦いで重傷を負ったミハイル3世は戦後間も無く没した。東欧史の研究家であるG.オストロゴルスキはヴェルブジュドの戦いの重要性について、「バルカン史の転換点」と評した。 形勢を窺っていたビザンツ皇帝アンドロニコス3世は同盟国の敗戦を知るとアドリアノープルに退却した。セルビア軍は追撃によって易々と戦利品を得、セルビアはマケドニア方面に領域を拡大する。ウロシュ3世はブルガリアにおいては妹のアンナを支援し、アンナの子イヴァン・ステファンを帝位に就けた。しかし、ウロシュ3世は政策に不満を抱く貴族の反乱によって廃位され、子のドゥシャンが王として擁立される。廃位されたウロシュ3世はズヴェチャン城(en:Zvečan Fortress)に幽閉され、その後間も無く絞殺された。
※この「ビザンツとブルガリアの脅威」の解説は、「ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ」の解説の一部です。
「ビザンツとブルガリアの脅威」を含む「ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ」の記事については、「ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ」の概要を参照ください。
- ビザンツとブルガリアの脅威のページへのリンク