ビザンチン・リバイバル
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「コンスタンチン・トーン」の記事における「ビザンチン・リバイバル」の解説
1829年皇帝ニコライ1世は、トーンにモスクワ河畔の大寺院設計を要請した。1830年トーンは野心的ともいえるプランを皇帝に提出した。こうして建設されたのが救世主ハリストス大聖堂である。トーンは、設計にあたっては聖ソフィア寺院に範を取り、ナポレオン戦争におけるロシア正教の勝利をテーマに設定した。この設計案に対しては、クレムリンのロシア正教寺院との類似性が明確であり、新古典主義建築が主流であった建築界において、そのビザンチン・リバイバル(新ビザンチン主義、Neo-Byzantine architecture)ともいうべき折衷主義が批判の的にもなった。それでも、ニコライ1世個人はトーンの設計案に賛成し、こうして建設は始まった。救世主ハリストス大聖堂の建設は、1881年のトーンの死後も彼の弟子たちによって続けられ、完成に44年もの歳月を要した。1883年5月26日ニコライ1世の孫にあたるアレクサンドル3世の戴冠式に献堂された。 1836年から1842年にかけて、トーンはサンクトペテルブルクのセミョーノフスキー近衛連隊に贈る広大な内部スペースを持つ重厚な教会の建設を監督した。さらに、スヴャボルク、エレツ、トムスク、ロストフ・ナ・ドヌー、クラスノヤルスクなどの地方都市に新ビザンチン様式の教会建築を設計した。1836年トーンの一連の設計はthe Model Album for Church Designs としてまとめられた。 1838年から1851年まで、トーンは、モスクワのクレムリンで新ビザンチン様式に基づいてクレムリン大宮殿と武器庫の設計・建設監督となった。クレムリン大宮殿は、従来のクレムリンにあった宮殿を包含しつつ、700の部屋と華麗なホールを持つ壮大な宮殿として完成し、ロシア帝国の偉大さを象徴するものとなった。こうしてクレムリンは、帝政ロシア、ソビエト連邦、そして現在のロシア連邦に至るまでロシア政治の中枢として君臨している。
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