ビザンチン・リバイバルとは? わかりやすく解説

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ビザンチン・リバイバル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/15 23:19 UTC 版)

コンスタンチン・トーン」の記事における「ビザンチン・リバイバル」の解説

1829年皇帝ニコライ1世は、トーンモスクワ河畔大寺設計要請した1830年トーン野心的ともいえるプラン皇帝提出した。こうして建設されたのが救世主ハリストス大聖堂である。トーンは、設計にあたって聖ソフィア寺院に範を取りナポレオン戦争におけるロシア正教勝利をテーマ設定した。この設計案に対しては、クレムリンロシア正教寺院との類似性が明確であり、新古典主義建築主流であった建築界において、そのビザンチン・リバイバル(新ビザンチン主義、Neo-Byzantine architecture)ともいうべき折衷主義批判の的にもなった。それでも、ニコライ1世個人トーン設計案賛成し、こうして建設始まった救世主ハリストス大聖堂建設は、1881年トーン死後彼の弟子たちによって続けられ完成44年もの歳月要した1883年5月26日ニコライ1世の孫にあたるアレクサンドル3世戴冠式献堂された。 1836年から1842年にかけて、トーンサンクトペテルブルクのセミョーノフスキー近衛連隊に贈る広大な内部スペースを持つ重厚な教会の建設監督した。さらに、スヴャボルク、エレツトムスクロストフ・ナ・ドヌークラスノヤルスクなどの地方都市に新ビザンチン様式教会建築設計した1836年トーン一連の設計はthe Model Album for Church Designs としてまとめられた。 1838年から1851年まで、トーンは、モスクワクレムリンで新ビザンチン様式基づいてクレムリン大宮殿武器庫設計・建設監督となったクレムリン大宮殿は、従来クレムリンにあった宮殿包含しつつ、700部屋華麗なホールを持つ壮大な宮殿として完成しロシア帝国偉大さ象徴するものとなった。こうしてクレムリンは、帝政ロシアソビエト連邦そして現在ロシア連邦に至るまでロシア政治中枢として君臨している。

※この「ビザンチン・リバイバル」の解説は、「コンスタンチン・トーン」の解説の一部です。
「ビザンチン・リバイバル」を含む「コンスタンチン・トーン」の記事については、「コンスタンチン・トーン」の概要を参照ください。

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