ホスロー2世廃位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 14:44 UTC 版)
「シャフルバラーズ」の記事における「ホスロー2世廃位」の解説
「サーサーン朝の内戦 (628年-632年)」も参照 627年、ホスロー2世はシャフルバラーズへ手紙を送り、クテシフォンへ彼の軍隊を送るように求めた。だが、シャフルバラーズはこれに従わず、アスーリスターン(英語版)(バビロニア)に移動し、Ardashir Khurrahに野営した。ホスロー2世はファッルフザード(英語版)を交渉担当者として彼の下へ送った。だが、ファッルフザードはシャフルバラーズ側に付き、ホスロー2世に対する陰謀を巡らせた。 1年後、ビザンツ帝国との戦争とホスロー2世の抑圧的な政策に疲れていたサーサーン朝の封建貴族たちは、父親によって投獄されていたホスロー2世の王子カワード2世を解放した。この貴族たちにはミフラーン家を代表するシャフルバラーズ自身と、スパーフベドのファッルフ・ホルミズド(英語版)と彼の二人の息子ロスタム・ファッロフザード(英語版)とファッルフザードに代表されるアスパーフバド家(英語版)、バグラトゥニ家のVaraztirots2世に代表されるアルメニア人の一派、そして最後にKanarangが含まれていた。2月、カワード2世はアスパード・グシュナースプ(英語版)と共にクテシフォンを占領し、ホスロー2世を投獄した。その後2月25日に自らがサーサーン朝の王であることを宣言し、ペーローズ・ホスロー(英語版)の助けを借りて、彼の兄弟と異母兄弟全員を処刑した。その中にはホスロー2世が最も愛した息子マルダーンシャーが含まれていた。3日後、カワード2世はMihr Hormozdに自身の父親の処刑を命じた。サーサーン朝の貴族たちの支持を得て、カワード2世はビザンツ皇帝ヘラクレイオスと講和を結んだ。講和の条件はビザンツ帝国が喪失した領土全ての返還、および捕虜の返還、賠償金の支払いと共に614年にエルサレムで鹵獲した聖十字架(真の十字架)とその他の遺物を返還することであった。 講和のための領土喪失に続いて、貴族たちがサーサーン朝内に独立的な王国を形成する動きが激しくなり、国力を分散させた。更にダムと運河が荒れ果て、イラン西部地方での猛烈な疫病の流行の中で人口の半分が失われ、カワード2世も死亡した。アルダシール3世が彼の跡を継いだ。
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