ホスローの養子受け入れをめぐる東ローマ帝国との交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:03 UTC 版)
「カワード1世」の記事における「ホスローの養子受け入れをめぐる東ローマ帝国との交渉」の解説
競争相手となる兄弟やマズダク教徒の派閥に立場を脅かされていた末子のホスローの継承を確保し、東ローマ皇帝ユスティヌス1世との関係を改善するために、カワード1世は520年頃にホスローをユスティヌス1世の養子にすることを提案した。この提案は、当初ユスティヌス1世と彼の甥であるユスティニアヌスから非常に強い興味と歓迎を受けた。しかしながら、皇帝の法務長官(クァエストル・サクリ・パラティ(英語版))のプロクルスは、ホスローが東ローマの帝位を奪取しようと企てる可能性を懸念したために反対した。東ローマ帝国はホスローをローマ人としてではなく、蛮族として養子に迎え入れるという反対提案を行った。結局、交渉は合意には至らなかった。伝えられるところによれば、ホスローは東ローマ帝国に侮辱を受けたように感じたといわれ、東ローマ帝国に対するホスローの態度を悪化させることになった。 一方ではシヤーウシュとともに外交官として交渉を行ったマフボドが、交渉を故意に妨害したとしてシヤーウシュを非難した。シヤーウシュに対し、ペルシアの法に反して新しい神を崇拝し、亡くなった妻を土葬した件を含むさらなる告発が行われた。これらの行動から、シヤーウシュはカワード1世が当初は支持していたもののもはや支持を撤回していたマズダク教の信徒であった可能性が非常に高い。シヤーウシュはカワード1世の親友であり、カワード1世の獄中からの脱出を助けたが、カワード1世はシヤーウシュの処刑を阻止しようとはしなかった。カワード1世の目的は、外見的には他の貴族によって嫌われていたサーサーン朝軍の長官としてのシヤーウシュの巨大な権力を抑えることにあった。最終的にシヤーウシュは処刑され、その官職は廃止された。交渉が決裂したにもかかわらず、530年まで西部の主要な国境における本格的な武力衝突は発生しなかった。その間、両国は南のアラブの同盟国と北のフン族を介した代理戦争を推し進めた。
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