政治家としての教皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 07:17 UTC 版)
「シクストゥス5世 (ローマ教皇)」の記事における「政治家としての教皇」の解説
シクストゥス5世は政治家としては壮大すぎる計画の持ち主であった。たとえばオスマン帝国の壊滅やエジプトの征服、イタリアへのイエスの墓の移転、彼の甥のフランス王即位などを夢みていたようだが、現実は厳しいものであった。特にスペイン王フェリペ2世の動向が気に入らず、その勢力拡大を好まなかった。彼がナヴァール王アンリ(後のアンリ4世)を破門してフランスのカトリック連盟とスペインの無敵艦隊の後押しをしていたときも、同盟者であるはずのフェリペ2世との争いが絶えなかった。そのためアンリがカトリックに改宗すると彼に期待をかけた。しかし、アンリとの交渉でも教皇は期待した成果が得られず、逆に教皇の誓いをもとめられたため、これを保留している。 シクストゥス5世は同時代人から厳しい批判を浴びていたが、歴史家達は彼を偉大な教皇の1人に数えている。確かに彼は思いつきで行動し、頑固で、専制的な人物であったが、みずからの目標に対して全力で取り組んでおり、手をつけた事業のほとんどを完成している。歴史の中で彼ほどの有形無形の業績を残している教皇はいない。
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