政治家としての出世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 09:06 UTC 版)
中国湖南省湘潭県生まれの外省人。戦後国民政府の台湾撤退に伴い家族とともに台湾へ移住、台北県内の眷村(外省人居住区)で育つ。国立政治大学卒業後、米国カリフォルニア大学バークレー校にて政治学修士号を67年に、ジョージタウン大学にて政治学博士号を74年に取得。帰国後、大学教員を務めていた時に当時総統だった蔣経国に請われ、英文秘書として政界入りする。その後蔣経国の側近として行政院新聞局副局長、同局長などを歴任した。当時最も期待されていた中国国民党若手官僚のひとり。 1988年7月に行われた蔣経国国民党主席の後継者を選出する国民党党員代表大会では、党副秘書長として秘書長の李煥とともに党内工作に従事、李登輝の国民党代理主席就任(後に党主席に就任)に大きな貢献を果たす。その成果を買われて1989年に国民党中央委員会秘書長に就任、以後、台湾省主席(1993年)、台湾省長(1994年、初代民選省長)などを歴任、李登輝政権下で李登輝の片腕として活躍した。 台湾省長時代には地方への利益還元型(いわゆる「ばらまき」)行政を展開したこと、野球帽にジャンパーというスタイル(これは、蔣経国の地方巡視の際のスタイルをそのまま踏襲したもの)で全国各地を回るといったパフォーマンスを行ったことなどで、台湾住民から高い支持を得ていた。その後台湾省政府簡素化を巡って李登輝と反目。1996年に国家発展会議で台湾省政府の機能凍結が合意されたことを受け辞表を提出するが、辞表は受理されず、1998年12月に台湾省政府が凍結されるまで省長を務めた。省長退任後、2000年総統選挙への立候補を表明したことにより、国民党から党籍を剥奪される。
※この「政治家としての出世」の解説は、「宋楚瑜」の解説の一部です。
「政治家としての出世」を含む「宋楚瑜」の記事については、「宋楚瑜」の概要を参照ください。
政治家としての出世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:37 UTC 版)
「ドミートリー・メドヴェージェフ」の記事における「政治家としての出世」の解説
1991年から1995年までメドヴェージェフはプーチンが議長を務めるサンクトペテルブルク市渉外委員会で法律顧問として働いた。1994年にプーチンが同市の第一副市長になるとプーチンの顧問も兼任した。 1999年8月にプーチンが首相に就任すると、プーチンはサンクトペテルブルク出身者(いわゆる「サンクト派」)を要職に登用するようになる。メドヴェージェフもその中の1人であり、同年11月にロシア連邦政府官房次長に任命される。さらにプーチンが同年12月31日に大統領代行に就任すると、それに伴い大統領府副長官に就任する。 2000年ロシア連邦大統領選挙ではプーチン陣営の選挙対策本部責任者としてプーチンの大統領当選に貢献し、ロシアにおいて最も有力な政治家の1人に台頭する。大統領選挙後の2000年6月3日には大統領府第一副長官に昇格した。同時に2000年から2001年までガスプロムの取締役会議長(会長)、2001年から2002年まで副会長、2002年6月30日から再びガスプロム会長を務めた。その後2003年10月30日にアレクサンドル・ヴォローシンの跡を追って大統領府長官に就任する。 さらに2005年11月14日にプーチンによって第一副首相に任命される。第一副首相としてメドヴェージェフは保健・教育・住宅建設・農業の4分野の改革で社会基盤の整備を目指す「優先的国家プロジェクト」を担当した。第一副首相就任に伴い、同じく第一副首相だったセルゲイ・イワノフと2007年9月に首相に就任したヴィクトル・ズプコフなどと共にプーチンの後継の最有力候補の1人と取り沙汰されるようになる。
※この「政治家としての出世」の解説は、「ドミートリー・メドヴェージェフ」の解説の一部です。
「政治家としての出世」を含む「ドミートリー・メドヴェージェフ」の記事については、「ドミートリー・メドヴェージェフ」の概要を参照ください。
- 政治家としての出世のページへのリンク