改革の責任者となるまでの調所とは? わかりやすく解説

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改革の責任者となるまでの調所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)

薩摩藩の天保改革」の記事における「改革の責任者となるまでの調所」の解説

調所広郷安永5年2月5日1776年2月5日)、川崎右衛門基明の次男として鹿児島城下で生まれた生家川崎家は薩摩藩城下士としては最下級の小姓組であった天明8年1788年)、調所清悦の養子となり、調所友治と名乗った調所清悦もまた実家川崎家と同じく城下士としては最下級の小姓組であった養子行った翌年養父調所清悦が亡くなった調所友治は養父の名を受け継いで調所清悦を名乗り、また養父勤めていた藩の茶道坊主の職も受け継いだ茶道坊主として務め出した頃、実名を恒篤としたと考えられている。 藩の茶道坊主となって8年間、調所鹿児島城勤務していたが、寛政10年1798年)、江戸住まいの重豪付きの奥茶道勤めとなり、名乗りも清悦から笑悦に改める。こうして調所は重豪の側近となったその後文化元年1804年)頃に、重豪付きの奥茶道勤めから、薩摩藩藩邸の奥茶道勤めとなる。藩邸での調所は、藩主世子の斉興付きであった考えられている。文化8年1811年1月には茶道頭に昇格し家格これまでの小姓組から一代新番へと引き上げられた。 文化10年1813年)、調所茶道業務離れ藩主側近となる小納戸抜擢された。この時点で笑悦から笑左衛門名乗り改める。文化12年1815年7月には、小納戸頭取御用御取次見習となり、藩主側近としての地保固めていく。その後いったん藩主側近役職離れ鹿児島町奉行などを務めたが、文政9年1826年11月には側用人両隠居続料掛として藩主側近復帰する両隠居続料掛とは、江戸で隠居生活を送る重豪、斉宣の隠居料について差配する役職であった両隠居続料掛任命後、調所これまで縁が無かった藩の財政問題取り組まざるを得なくなった。また文政末年には実名を恒篤から広郷へと改めた文政11年1828年6月頃、重豪は調所薩摩藩改革主任指名した。重豪の指名は、前述のように藩士菊池東原推薦よるものであった。重豪の指名受けた調所は、これまでの改革の試み全て挫折していて、自信無くいったんは断ったものの、重豪は長脇差掴みながら「側役主人生死共にする職であるが、これほど危急切迫の場に追い込まれているのに、命令を断るとはどんなつもりか」と承諾迫り調所としても引き受けざるを得なかった。かつて重豪は斉宣による中位下位藩士積極的に登用し藩政改革潰したものの、最後に藩政改革委ねたのはもともと城下最下級の小姓組で、茶道坊主上がり調所広郷であった

※この「改革の責任者となるまでの調所」の解説は、「薩摩藩の天保改革」の解説の一部です。
「改革の責任者となるまでの調所」を含む「薩摩藩の天保改革」の記事については、「薩摩藩の天保改革」の概要を参照ください。

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