改革の責任者となるまでの調所
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「薩摩藩の天保改革」の記事における「改革の責任者となるまでの調所」の解説
調所広郷は安永5年2月5日(1776年2月5日)、川崎主右衛門基明の次男として鹿児島城下で生まれた。生家の川崎家は薩摩藩の城下士としては最下級の小姓組であった。天明8年(1788年)、調所清悦の養子となり、調所友治と名乗った。調所清悦もまた実家の川崎家と同じく、城下士としては最下級の小姓組であった。養子に行った翌年、養父の調所清悦が亡くなった。調所友治は養父の名を受け継いで調所清悦を名乗り、また養父が勤めていた藩の茶道坊主の職も受け継いだ。茶道坊主として務め出した頃、実名を恒篤としたと考えられている。 藩の茶道坊主となって約8年間、調所は鹿児島城で勤務していたが、寛政10年(1798年)、江戸住まいの重豪付きの奥茶道勤めとなり、名乗りも清悦から笑悦に改める。こうして調所は重豪の側近となった。その後文化元年(1804年)頃に、重豪付きの奥茶道勤めから、薩摩藩芝藩邸の奥茶道勤めとなる。芝藩邸での調所は、藩主世子の斉興付きであったと考えられている。文化8年(1811年)1月には茶道頭に昇格し、家格もこれまでの小姓組から一代新番へと引き上げられた。 文化10年(1813年)、調所は茶道の業務を離れ、藩主側近となる小納戸に抜擢された。この時点で笑悦から笑左衛門と名乗りを改める。文化12年(1815年)7月には、小納戸頭取、御用御取次見習となり、藩主側近としての地保を固めていく。その後いったん藩主側近の役職を離れ、鹿児島町奉行などを務めたが、文政9年(1826年)11月には側用人格両隠居続料掛として藩主側近に復帰する。両隠居続料掛とは、江戸で隠居生活を送る重豪、斉宣の隠居料について差配する役職であった。両隠居続料掛任命後、調所はこれまで縁が無かった藩の財政問題に取り組まざるを得なくなった。また文政末年には実名を恒篤から広郷へと改めた。 文政11年(1828年)6月頃、重豪は調所を薩摩藩の改革主任に指名した。重豪の指名は、前述のように藩士菊池東原の推薦によるものであった。重豪の指名を受けた調所は、これまでの改革の試みが全て挫折していて、自信が無くいったんは断ったものの、重豪は長脇差を掴みながら「側役は主人と生死を共にする職であるが、これほど危急切迫の場に追い込まれているのに、命令を断るとはどんなつもりか」と承諾を迫り、調所としても引き受けざるを得なかった。かつて重豪は斉宣による中位、下位の藩士を積極的に登用した藩政改革を潰したものの、最後に藩政改革を委ねたのはもともと城下士最下級の小姓組で、茶道坊主上がりの調所広郷であった。
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