改革の障害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 06:31 UTC 版)
「ロシア史 (1991年-現在)」の記事における「改革の障害」の解説
旧ソビエト連邦は政治改革や経済の再構築、国境線の見直しなどのソ連崩壊後の移行における数多の独自の障害に合意することになった。この変更に関連する不快感は、旧ソ連の共和国ごとに違ったものであった。一般論としてポーランドやハンガリー、チェコのようにロシアの西に当たる国は、ロシアやロシアの東に当たる国が更に大きな困難を経験し崩壊直後に悪化した関係に陥る一方で東欧ブロックの崩壊によりうまく進んだ。ロシアの移行が非常に悲痛なものであった主な理由は、ロシアがソ連時代の政治構造と経済構造の両方を直ちに作り直す途上である点である。新しい政治経済体制を作ろうと意図した構造改革に加えてロシアはソビエト連邦の分解に続いて新しい国民国家に再生する責任もあった。 ロシアが直面した最初の主要な問題は、ソビエト連邦の冷戦に対する巨大な関与の遺産であった。1980年代後半、ソビエト連邦は防衛部門に全経済支出の4分の1をつぎ込んだ(当時殆どの西側の分析者はこの指標は15%であると考えた)。当時軍産複合体はソビエト連邦の少なくとも大人5人に一人を雇用した。ロシアの一部の地域では全労働人口の少なくとも半分が国防産業に雇われた。(同様のアメリカ合衆国の指標は、国民総生産の概ね16分の1であり、全労働人口の約16人に一人であった。)軍事部門へのこの過剰な依存がロシアの産業を形成し、人的資本は市場優先体制に入る際に比較的無競争の状態であった。更に冷戦の終焉と産業に影響を与える軍事支出の削減は、急速に設備を一新し労働者を再教育し新しい市場を見出すのを劇的に困難にしている。経済刷新の過程で巨大な経験や有資格の専門家、ノウハウは、工場が時に例えばハイテク軍事設備の製造から台所用品の製造に移行することで失われたり配分し損ねた。 完全な広大さとロシア陸隗の地理的多様性と一部関係のある第二の障害は、ロシアがソビエト連邦から受け継いだ相当多量の「単一産業の」地域経済(単一産業の雇用者により支配された地域)であった。関連する少数の大国営企業における生産の集中は、多くの地元政府が単一の雇用者の経済状態に完全に依存していたことを示し、ソビエト連邦が崩壊しソ連の共和国と地域の経済的な結びつきが深刻化すると、全国の生産は、50%以上下落した。ロシアの都市の約半分は、唯一の大企業を有し、4分の3は4つ以上なかった。結果的に生産の減退は、途方もなく大きな失業と不完全就業を齎した。 第三にソ連崩壊後のロシアは、ソ連から公安や福祉の制度を引き継がなかった。それどころか企業(主に大工業の会社)は伝統的に広範な社会福祉の機能構築と労働力向けの住宅の維持、健康管理、娯楽施設、教育施設、同様の施設に責任があった。反対に町は基本的な公共サービスの提供の為の機関や資金がなかった。工場労働者は会社の状態に大きく左右された。従って地元政府がこの機能に資金面や運営上の責任を負えない為に、経済的な移行は、社会福祉を維持する上で深刻な問題を創り出した。 最後にロシアにおけるソ連崩壊後の改革の失敗に対するヒューマン・キャピタルの問題がある。旧ソ連の人々は、必然的に無学ではなかった。識字はほぼ全国民が享受し、ソ連の人々の教育水準は、ソ連は西側でリベラル・アーツと呼ぶものに殆どつぎ込まなかったが、科学や技術、一部の技能訓練に関しては世界最高水準であった。共産主義後の体制への移行と共にロシアの大学制度は崩壊した。ロシアの大学制度における激しい資格認定のインフレーションは、本当に資格のある解決できる雇用者にとって困難なものになり、高等教育の問題は、一般にスキルアップや再訓練のように市場優先体制への移行から来るヒューマン・キャピタルの別の問題を改善するのを困難にした。例えば嘗ての国営企業の管理者は、ソ連の計画生産目標の体制の下で要求を上手く処理する能力に長けていたが、リスクと報酬中心の市場資本主義の行為を妨げた。この管理者は従業員や家族、自身の住む町や地域の人々に向けた社会福祉機能の広範な配置を行う責任があった。しかし利潤や効率性は、一般にソ連の企業管理者にとって最優先のものではなかった。従ってソ連の雇用者や管理者は、殆ど市場経済の状態で決定する直接の経験がなかった。
※この「改革の障害」の解説は、「ロシア史 (1991年-現在)」の解説の一部です。
「改革の障害」を含む「ロシア史 (1991年-現在)」の記事については、「ロシア史 (1991年-現在)」の概要を参照ください。
- 改革の障害のページへのリンク