クリミア戦争と改革勅令とは? わかりやすく解説

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クリミア戦争と改革勅令

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 01:30 UTC 版)

タンジマート」の記事における「クリミア戦争と改革勅令」の解説

詳細は「改革勅令」を参照 シチリア革命パリ二月革命ウィーン三月革命英語版)、ベルリン三月革命など、1848年ヨーロッパ革命の嵐が吹き荒れ、それは北欧東欧をも巻き込んだ1848年革命はしかし、まもなくそれに対す反動の嵐をも引き起こしてオーストリア帝国ロシア帝国弾圧され大量ハンガリー人ポーランド人オスマン領内なだれこんだロシア政府オスマン帝国対し亡命者たち身柄引き渡すよう要求したが、オスマン帝国政府はこれを拒否ヨーロッパリベラルな世論からは歓迎された。一方、「諸国民の春」の状況オスマン帝国にとっても諸刃の剣であり、帝国領一部バルカン半島ブルガリアでは、1850年大規模な農民反乱起こっている。これは、ブルガリア農民ギュルハネ勅令「約束」信じムスリム地主層から課せられていた強制労働などの「封建的義務」を拒否したことに端を発していたが、中央政府バルカン半島支配は、むしろこうしたムスリム地主層土地所有や「封建的義務そのもの依存していたために、勅令示され方針貫徹することができなかった。ヴィディンブルガリア)の農民反乱に対してオスマン帝国軍はこれを完全に鎮圧することができず、わずかにアーヤーン連合私兵によって抑えられたにすぎなかった。 これに対してロシアは「東方問題」を利用して南下政策をすすめようと、オスマン帝国内における東方正教会信徒保護聖地イェルサレムにおける正教徒権利拡張名目に兵を進め1853年オスマン帝国との間にクリミア戦争勃発オスマン帝国単独戦闘では劣勢つづいたが、オスマン支援するイギリス・フランス参戦して激し戦いとなった。 この戦いで英仏支援もあってかろうじて勝利を収めることができたが、帝国にとってより重要なのは、軍費捻出困窮して1854年イギリスに対して初め借款をしたことであった。そして、イギリスなど改革目標示して支持獲得する必要に迫られオスマン帝国は、非ムスリム権利認め改革をさらにすすめることを列強対し約束した。これが、1856年2月発布され改革勅令である。勅令は、クリミア戦争終わりを告げる3月30日パリ条約先立ちイスタンブル英仏両国総領事オスマン政府との協議受けて起草された。その中心にいたのが、オスマン帝国側はアーリ・パシャメフメト・エミン・アーリ・パシャ)、イギリスではストラトフォード・カニングであった改革勅令では、非ムスリム臣民あらゆる公職参加できること、信教の自由、非ムスリム共同体代表の権利の再規定、非ムスリム公立学校への入学許可各地方議会でのムスリム・非ムスリム代表選出方法改善、非ムスリム代表が最高司審議会議に参加できるとしたこと、非ムスリムに対して差別用語用いることの禁止、非ムスリム兵役義務、非ムスリム共同体による学校設立独自の教育課程編成承認混合裁判所における非ムスリム証人認めるなどの内容明確に盛り込まれていた。 この勅令文言は、先のギュルハネ勅令比べて表現あまりに直接的なものであり、その内容のほとんどが非ムスリム権利保障関わるものであったことから、すでに起草段階よりムスタファ・レシト・パシャ批判を受け、ムスリム一部では「特権勅令」と呼ばれて不評であったこのような勅令内容は、一方で西欧列強の非ムスリム権利擁護要求に応じて作られたものではあったものの、他方では、多民族内包する帝国にあっては、非ムスリム諸民族共同体ミッレト内部深刻な対立看過できないものであり、これを調停する必要があったためでもある。勅令ではまた、外国人不動産所有権付与国家予算提示銀行設立運河道路の建設ヨーロッパ起源とする近代教育制度科学技術欧州資本導入などについても具体的に述べられている。これを受けて1856年イギリス資本によってカモンド家支配するオスマン銀行設立された。欧化をめざす改革必要な財政支出を、自国経済発展からではなく西欧諸国などからの外債導入たよったことは、タンジマート改革の限界を示すことではあったが、この勅令の発布パリ条約における黒海航行の自由化(ロシア独占排除)を引き換えオスマン帝国ヨーロッパ一員として認められるようになったのである。 こうして第二段階入ったタンジマート新法典、教育制度土地法を中心に踏み込んだ改革進められた。この時期の諸改革主導したのは、同じ1815年生まれで、ともにレシト・パシャの庇護受けたアーリ・パシャフアト・パシャメフメト・フアト・パシャであった1858年制定の新刑法1861年制定の新商法はともにシャリーアヨーロッパ近代法折衷模索したものであり、一般的にイスラーム法体系においても時代変遷によって変更生じうる実定法要素をもつ部分近代ヨーロッパ法の借用多かったのに対し宗教的規範にかかわる部分伝統的な要素色濃くのこされた。教育分野では、1859年文官養成校(ミュルキエ(トルコ語版))、1868年のガラタサライ・リセ(英語版)がそれぞれ重要である。これらの学校では、外国語としてはフランス語国語としてのトルコ語重視され入学民族宗教によって差別されず、世俗的な教育施されたことから、ヨーロッパ教養をもち、世界市民的な考えをもった官僚層・指導者層がここから育っていった。1858年土地法は、従来国有地原則改めその後一連の改訂プロセス経て近代的な私的土地所有権確立第一歩になった評価される

※この「クリミア戦争と改革勅令」の解説は、「タンジマート」の解説の一部です。
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